荒木村重
あらきむらしげ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
丹波波多野氏の一族。幼名は十二郎。のち、弥介・信濃守・摂津守。池田城主池田勝正に仕えていたが、1570年(元亀元)勝正を追い出した。1571年中川清秀は守護和田惟政を、村重は茨木佐渡守を討ち、茨木城に入った。1573年3月には織田信長に属した。1574年(天正2)3月日付禁制を本興寺に、また同月日付の条々・書状を長遠寺に出している。その頃には尼崎は信長の支配を継いで村重が支配していたと思われる。11月伊丹親興の伊丹城を攻め落とし、信長の命により有岡城と改名。1576年4月尼崎より野田の水路をおさえた。7月毛利・村上の水軍が石山本願寺へ兵粮搬入のため、木津川口へ進入。村重は尼崎水軍を率いて迎え討ったが大敗した。1577年10月秀吉は中国攻略のため播磨へ進出。1578年4月毛利に包囲された上月城救援のため村重は秀吉とともに高倉山に陣したが、6月熊見川の戦いに村重は傍観して勝機を失った。上月城を放棄し、秀吉に従って神吉城の攻撃に転じたが、10月信長にそむき、信長の使者の説得にも応じなかった。11月有岡城に籠城。信長方との持久戦のなかで、1579年9月2日毛利の援軍を得ようと尼崎城に入った。12月有岡城は落城。12月13日、尼崎七松において、荒木の郎党が処刑された。1580年荒木志摩守の守る華熊城は落城。村重は嫡子新五郎(村次)とともに尾道へ落ちのび、1583年信長没後茶人道薫として秀吉に仕え利休七哲の一人となった。堺で没、52歳。法名、秋英宗薫居士(堺、南宗寺)、心英道薫禅定門(伊丹、荒村寺)。
参考文献
- 『荒木村重史料』 1978 伊丹市
- 瓦田昇「荒木村重謀反の周辺」『地域史研究』第4巻第3号 1975