菜種作
なたねさく
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
菜種は江戸時代燈油の原料で、裏作物としては麦よりはるかに有利な換金作物であったので、18世紀以降関東以西の温暖な地方に普及したが、摂津・河内はその最大の産地であった。市域でも18世紀前半から作付けが進んだと考えられるが、現在わかっている最も古い記録は1757年(宝暦7)川辺郡富田村で約1町、村の総耕地の約20%程度の菜種作である。18世紀後半になると西摂灘目の水車絞り油業が台頭してきたことで需要が増大したので、この地方の菜種作は急激に発展した。1799年(寛政11)以降4か年平均で武庫地区は40%前後、武庫川下流域の西大島村・東新田村では50%前後の高い作付率となっている。この地方は綿作の盛んな地帯と一致しているが、その以南をふくめて市域全域に普及した。たとえば川辺郡下坂部村の三根〔みね〕家では1836年(天保7)菜種は8反余に作付けられたが、これは裏作面積の約52%に相当した。農家は菜種の販売によって肥料代の支払いが容易となり、そのことはまた米・綿の収穫量の増大をもたらす。こうして菜種作は綿作と結合して、また綿作の衰退後も、市域の農村の富裕化を支えた。それゆえ菜種の自由で有利な販売を妨げる幕府の統制にたいして、1766年(明和3)武庫郡55か村の国訴が発生した。明治維新後も菜種作は綿作のように直ちに衰退せず、1900年(明治33)に作られた鉄道唱歌に、市域の鉄道沿線に「菜種ならざる畑もなし」とうたいこまれたようにまだ盛大であった。