藤岡文六
1892年(明治25)3月15日 - 1956年(昭和31)3月6日
長崎県北高来郡諫早村(現諫早市)に生まれた。9歳までに父(医師)および母に死別。叔父の家で養われ、小学校3年中退。16歳から坑夫となり、田川炭坑で友愛会の組織運動を起こし鈴木文治らを迎えて宣伝演説会を開いたため、1919年(大正8)8月馘首された。友愛会本部員を経て同年10月友愛会九州出張所常任、筑豊炭田の坑夫の組織化に努力した。1920年2月の八幡製鉄所争議で検挙、未決4か月懲役1年執行猶予の判決を受けた。出獄後の同年9月神戸連合会主事として関西に移転、大阪電燈会社・藤永田造船所争議を西尾末広と共に支援し、ゼネストを呼びかけるビラで検挙された。以後尼崎・大阪地方の労働争議の多くを指導した。総同盟第1次分裂後本部主事、尼崎連合会会長となったが、1926年の第2次分裂で日本労農党を支持して尼崎での組織拡大を推進、総同盟から除名された。同年12月同党関西支部結成の中心となり、蓬川・武庫川・兼重・薄板の各支部を率いて総同盟を脱退させ尼崎労働組合を結成、組合同盟に参加した。1927年(昭和2)4月関西合同労働組合顧問、9月普選最初の県会議員選挙に尼崎市区から立候補して落選したが、1928年5月尼崎市会議員に当選。日本労農党中央委員・県連書記長、日本大衆党・全国大衆党・全国労農大衆党で各中央執行委員を歴任。組合同盟では中央執行委員・尼崎連合会長。1930年全労結成で統制委員長となった。1932年国家社会主義に転じ日本国家社会党中央執行委員・日本労働同盟中央委員・愛国政治同盟総務委員等を歴任した。1932年5月の市会選挙で落選。戦時下中国東北部鞍山〔アンシャン〕で協和会の支部長、戦後中国共産党の活動をしたともいわれる。150cmながら「熱血漢で頭の回転が良く」「怒ればどう猛なる狼の如し」と評された。妻は国領五一郎の妹で国領巳三郎の姉。
参考文献
- 野口義明『無産運動総闘士傅』 1931 社会思想研究所
- 山下栄二「戦前尼崎の総同盟労農運動の思い出」『地域史研究』第6巻第1号 1976
- 『戦前尼崎の労農運動』 1979 尼崎労農旧友会