藤沢東畡

ふじさわとうがい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1794年(寛政6) - 1864年(元治元)12月16日

  名は甫、字は元発。昌蔵と称し、号は泊園。讃岐に生まれ、中山城山に師事して儒学を学び、さらに長崎で3年間中国語音を学んだ。1824年(文政7)大坂に出て教授を業とし、やがて淡路町5丁目に塾を開き泊園書院と称した。東畡は萩生徂徠の学統をうけ、大坂で中絶していたその学統の中興をはかり、人材の育成につとめた。泊園書院はその後瓦町2丁目に移され、全国から入門者が集った。その間、東畡は大坂平野郷の含翠堂への出講、大坂城中の講釈など出張講釈も多く、やがて賓師として尼崎藩に招かれ、高弟中谷雲漢を儒官に推挙した。東畡が尼崎藩に招かれた経緯は明らかでないが、学識と世評だけでなく、阪本順庵以来の尼崎藩の学風に近いことにも関わりがあろう。因みに幕末京坂の儒者文人評を番付けした『当世名家評判記(別名、大妙々奇談)』には、東畡を「大極上々吉」として筆頭に掲げ、当時大坂で随一の学識と世評ある学者とし、さらに人柄はよいが「田舎児〔てんじゃじ〕」を免れぬとも評している。

執筆者: 竹下喜久男

参考文献

  • 岡本静心『尼崎藩学史』 1954 尼崎市教育委員会・尼崎藩学史出版協会
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