藩治職制
はんちしょくせい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1868年(慶応4)9月年号が明治と改元された翌10月維新政府は、諸藩の内政への介入の第一歩として、藩治職制を公布した。これは藩の職制を統一的に定めて人材の登用を命じ、そのなかから藩論の代表者として公議人を選出させ、それを通じて諸藩を統制することを意図したものである。尼崎藩では、これにより最重職の執政には元家老の堀式部・田中采女〔うねめ〕と、中士層から豊田連・服部清三郎が就任し、執政につぐ要職の参政には中士層から10人が登用された。また執政の豊田・服部がそれぞれ初代・二代目の公議人となった。しかし6人の元家老が高禄を保持しているなど、この段階では旧来の藩の指導体制は打破されるにはいたらなかった。