疎開

そかい
衣料疎開より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  第2次世界大戦末期アメリカ軍の空襲の被害を避けるために都市の工場施設・物資・人員などを農山村その他の地域に分散移動したことをいう。またそれとはちがった意味のものであるが、空襲被害を最小限にするため家屋を間引きして撤去する家屋疎開も行なわれた。1943年(昭和18)12月政府は都市疎開実施要綱を定めて重要都市に実施した。兵庫県ではこれにもとづき都市疎開実行本部を設置し、まず神戸・尼崎両市の家屋疎開を実施した。1945年2月工場緊急疎開要綱が定められ重要工場の疎開が実施された。尼崎市では住友金属工業プロペラ製造所三菱電機伊丹製作所日本内燃機などの軍需工場が県下養父〔やぶ〕・氷上〔ひかみ〕・多紀・多可の諸郡などのほか西宮の酒造工場、神戸の阪神会館地下室や阪神電鉄の地下部分などに疎開され、それぞれの従業員も各地に疎開した。また反対に他都市から尼崎市内に疎開してきた工場もある。その他老幼病者・妊婦・国民学校児童などの人員疎開が行なわれ、終戦までに尼崎市から転出した人員は4万4,918人(内戦災者560人)に達した。また県衣料疎開要綱にもとづいて多紀郡への衣料品の集団疎開がおこなわれたほか、家財・衣料品などを個人的に縁故を頼って地方に疎開するものも多く、その便宜のために市の発給した疎開証明書は5,784枚に達した。

執筆者: 山崎隆三

  1944年(昭和19)2月、尼崎市は市役所内に疎開相談所を設け、防衛部警防課を中心として本格的な疎開事務を開始した。(昭和19年『尼崎市事務報告書』による)

執筆者: apedia編集部

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