西新田
大庄地区の大字。市域南西部、武庫川の東岸に位置しており、集落の北に中国街道が接していた。「細川両家記」、永正16年(1519)12月条(『尼崎市史』第4巻)には浜田・大島に続いて「新田」と記されており、もとは東新田と一体で、中世後期頃に西大島の南に開発されたものと考えられる。西新田の史料上の初見は1605年「慶長十年摂津国絵図」。
近世初期には幕府領、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に569.175石、「元禄郷帳」に1,231.787石、「天保郷帳」に2,143.663石とある。地先には道意新田・又兵衛新田・中浜新田・丸島開発による平左衛門新田などが開発され、郷帳記載の石高にはこれらの新田の石高が含まれている。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数94軒、人数668人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には150軒、684人とある。(いずれも新田分を含む)。大島井組に属した。氏神は素盞嗚神社(近世には牛頭天王社)。ほかに八幡宮があったが1913~1914年(大正2~3)素盞嗚神社に合祀された。寺院は浄土真宗本願寺派源光寺・同宗同派円徳寺。中国街道が武庫川を渡る西新田の渡しでは舟渡しを担当した。武庫川橋手前の坂は雉が坂と呼ばれ、羽柴秀吉にまつわる伝説が伝えられている。
1889年(明治22)以降は大庄村の大字、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字西となった。1905年(明治38)には阪神電鉄の武庫川駅が開設された。1936・1937年には地先の埋め立てで末広町・扇町がつくられた。1952年(昭和27)には東新田にかけての大庄湿地帯が開発されて尼崎競走場(競艇場)が建設された。1949年の土地区画整理と1983年住居表示により大庄西町・武庫川町・元浜町・丸島町となったほか、一部が大島・大庄中通・水明町・大浜町・道意町となり、西新田および西という地名は消滅した。1969年には平左衛門町が田近野との交換で西宮市から尼崎市に移った。