貴布禰神社(西本町)

きふねじんじゃ(にしほんまち)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
貴布禰神社境内(『摂津名所図会』)
貴布禰神社境内(『摂津名所図会』)

  宮町(現西本町6丁目)にある旧尼崎町の惣氏神。『尼崎志』によれば同社の発祥の地は長洲貴布禰神社東長洲字南畑、現長洲中通3丁目)と伝えられ、中世尼崎町の発展とともに尼崎惣社として分祀されたものと考えられる。その故地は近世尼崎城の西三の丸(現北城内)の位置であったが、戸田氏鉄尼崎城築城にともない元和年間(1615~1624)に西屋敷役人町(現西桜木町)に移転、さらに1715年(正徳5)現在地に移転した。また『尼崎市史』は、長洲および西本町貴布禰神社と大和丹生〔にゅう〕川上神社・京都貴船神社とのつながりを示すさまざまな所伝を紹介し、考察を加えている。

  同社は、漁業や水運をつかさどる水神として漁民・海民の信仰を集めた。また、近世にはたびたび雨ごいの神事が行なわれるなど農業のうえでも重要な信仰対象であり、歴代尼崎藩主の崇敬も厚かったと伝えられる。尼崎町の惣社であった同社の夏祭りには、各町から檀尻〔だんじり〕が繰り出し、城下全体が年間で一番のにぎわいを見せた。境内には芝居小屋があり、祭のとき以外にもさまざまな見せ物興業や宮相撲・浄瑠璃などが催され、城下庶民の娯楽の場であった。

  「明治12年神社明細帳」(『地域史研究』第6巻第3号)には、元来祭神は高龗神〔たかおかみのかみ〕一神であったが、1909年(明治42)許可され加茂別雷大神〔かもわけいかづちのおおかみ〕・加茂御祖大神〔かものみおやのおおかみ〕を加えるとあり、さらに境内社19社をあげている(祭神は現在も同じ)。新城屋新田東島・西島の両稲荷神社、市庭町の市蛭子〔いちえびす〕神社、竹谷新田の貴布禰神社が、いずれも1915年(大正4)に合祀された。1945年(昭和20)空襲で社殿が罹災し、1950年に復興した。

執筆者: 地域研究史料館

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