足利義詮
あしかがよしあきら
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
室町幕府2代将軍。将軍任官は父尊氏の死直後の1358年(延文3)だが、1349年(貞和5)観応の擾乱が起こると鎌倉から上京して叔父直義〔ただよし〕および父尊氏に代わって幕政を執った。擾乱以後畿内と西国で義詮の御判御教書が多発されたのはこの理由による。父に似ず状況まかせに行動して軍事的才幹に欠けたが、彼の最大の功績は1352年(観応3)南軍の京都占領で中絶した皇統を再建し、後光厳〔ごこうごん〕天皇を践祚させたことである。1355年(文和4)3月には摂津守護赤松光範に春日社領浜・富松両郷の返還および東福寺造営料木の摂津諸関通過を命ずる御判御教書を発給した。1359年(延文4)12月摂津・河内の南朝軍功略のため尼崎に出陣した義詮は、翌年5月まで大覚寺に在陣。その間に大覚寺長老にあてて天下静謐祈祷をもとめる御判御教書および大覚寺への富島荘下司職の寄進状を発給した。