車持君

くるまもちのきみ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  天皇の乗輿を製作、管理することを職業とした氏族で、その職務を果すための費用を貢納する車持部を与えられていた。「新撰姓氏録」の左京皇別の項に、豊城入彦命〔とよきいりひこのみこと〕の八世の孫の射狭君〔ささのきみ〕の後で、雄略天皇の代に乗輿を供進したため車持公〔きみ〕の姓〔かばね〕を賜ったとある。また摂津国皇別の項にもみえるので、摂津国にも居住していたらしい。そのことは「日本書紀」の履中天皇5年10月条の記事にっよても裏づけられる。すなわち車持君が筑紫国に行き、宗像神社に割き与えられていた車持部を奪いとった祟りで天皇の妃が死んだため、天皇はその罪を責めて、長渚崎〔ながすのさき〕で祓〔はら〕え禊〔みそぎ〕を行なわせたとあるが、長渚崎は現在の尼崎市長洲付近にあった海岸で、車持氏が摂津国河辺郡とかかわりがあったことを暗示している。

執筆者: 長山泰孝

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