辰巳町
中世以来の尼崎町の町名。杭瀬にかけて鎌倉~江戸時代の辰巳橋遺跡がある。史料上の初見は1445年(文安2)「兵庫北関入船納帳」で辰巳と記されている。中世尼崎町の南東(辰巳)端で、海に面していた。西に隣接する風呂辻町では1572年(元亀3)長遠寺が建立され、辰巳町にはその門前市の巳之座が立った。長遠寺建立の際の信長禁制には「市場巽〔たつみ〕長遠寺」とあり、市場のあった市庭町の南東に位置したことが町名の由来と考えられるが、中世の尼崎城または尼崎惣社から見た方角に由来するという説もある。
近世には辰巳御組屋敷(足軽屋敷)がつくられ、残りは町人の居住する町場であった。「尼崎領尼崎町本地子」(金蓮寺旧蔵文書写)には戸田氏の時代の石高105.6石、地子米52.8石、「築地町式目帳」(『尼崎市史』第5巻)には1769年(明和6)の惣町間口385間、「城内・城下間数・家数書上げ」(年不詳、同前)には家数103軒とある。町の南東端、左門殿川に面して辰巳の渡しがあり、対岸の佃もしくは直接大坂への船が発着した。また過書船の船番所も設けられていた。氏神は辰巳八幡神社。辰巳八幡神社文保3年五輪塔残欠がある。
1930年(昭和5)の町名改正と1958年の土地区画整理により東本町の一部となった。本町筋が本町通商店街として栄えたが1945年(昭和20)家屋疎開の対象となり消滅した。
南東を意味する辰巳という町名の由来について、『尼崎市史』第1巻は、1572年(元亀3)に織田信長が長遠寺にくだした禁制に「摂州尼崎内市場巽長遠寺」とあることから中世の市場巽という地名が起源であるとし、大覚寺門前の市庭との位置関係を指摘する。また、中世尼崎の空間構造形成を論じた宮本雅明氏は、大覚寺及び市庭を中世尼崎町形成の起源として重視する立場から、同様に市庭から見て南東であることを地名由来と推定する(宮本雅明「境内と門前の港町」『図集日本都市史』東京大学出版会、1993年)。
これに対して、宮本氏と同じく中世尼崎の空間構造形成を論じた藤本誉博氏は、考古学の成果から辰巳の集落形成が大覚寺門前の市庭より古い時代にさかのぼるとし、尼崎より先に成立した港町である大物から見て南東に位置することに由来すると推定し、歴史上大覚寺と密接な関連性を有する燈炉堂の所在地であった可能性を指摘する(藤本誉博「中世都市尼崎の空間構造」『地域史研究』第111号、2011年9月)。このほか、戦国期尼崎城ないし尼崎惣社である貴布禰社の中世の立地との位置関係を由来とする説(『角川日本地名大辞典』28兵庫県、角川書店、1988年)、あるいは中世の尼崎四町のなかで南東にあるからとする説(日本歴史地名大系第29巻1『兵庫県の地名』1、平凡社社、1999年)など諸説がある。