近松門左衛門
越前藩士杉森信義の次男として福井に生まれ、十代なかば父の致仕にともない京都に移った。1671年(寛文11)刊行の俳書『宝蔵』に当時19歳の近松(本名・杉森信盛)の発句が見える。青年期の近松は、公家に仕え、和漢の教養を身につける傍ら、芝居に親しんだ。折から1675年(延宝3)京四条河原に旗揚げした浄瑠璃太夫の宇治加賀掾は、古典文芸の世界を導入した斬新な浄瑠璃を語りだした。近松は加賀掾のもとで作者生活を始めたと考えられる。現在近松の確定作とされるもっとも早いものは、1683年(天和3)加賀掾所演の浄瑠璃「世継曽我」である。それと前後して歌舞伎の作劇にも手を染めた。また芝居つくりにほかに「つれづれ」の講釈などに手をひろげ、強く存在を主張した。元禄年間(1688~1704)は加賀掾や竹本義太夫の浄瑠璃、坂田藤十郎らの歌舞伎を執筆した。1705年(宝永2)竹田出雲を座本に迎え、新体制で発足した大坂の竹本座は、近松を座付作者として抱えた。以後、近松は大坂に転居し、浄瑠璃作りに専念する。1714年(正徳4)義太夫(筑後掾)が没して後は、後継者竹本播磨少掾を守り立て、その芸風にあった人情の深奥に分け入る名作を執筆した。1714年、日昌が久々知の広済寺を再興した時の開山講に近松は名を連ねた。同寺所蔵の「開山講中連名掛額」などに、芝居関係者とともに近松の名が見える。他に母の菩提のため、阿野実藤筆法華廿八品和歌を奉納する等、近松と広済寺の関係は密であった。1724年11月22日没。絶筆は同年正月上演「関八州繁馬」。生涯の劇作は浄瑠璃100余編、歌舞伎30編前後。墓所は広済寺のほか大阪法妙寺跡(大阪市中央区)にも残る。
広済寺境内にある近松門左衛門の墓は、大阪法妙寺跡の近松墓とともに、1966年(昭和41)9月2日に国指定史跡に指定された。
参考文献
- 森修『近松門左衛門-古典とその時代-』 1959 三一書房
- 岩波書店『近松全集』 17 1994