逃散(旗本青山氏領)
ちょうさん(はたもとあおやましりょう)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1738年(元文3)旗本青山幸覃〔ゆきひろ〕(幸通系)の知行所で逃散事件が起きた。1729年(享保14)ころから連年風損、早魃がつづき、1732年には大飢饉で飢人も出る状態であった。そこへ翌年安東茂右衛門が代官の任についた。彼はさっそく高い値段で前年の不納年貢の代銀納を命じ、その後も年貢率の引上げ、無高地に年貢を賦課、高い値段での年貢の代銀前納命令…と、苛政を続けた。そして1737年には御用銀・先納米不納分の繰上げ納入を命じ、納められないものは村を立ち去れという有様であった。ついに1738年7月、知行所8か村のうち浜・次屋・下大市・中・下新田の村人は庄屋を残して全員が妻子ともども村を退去した。潮江(大庄屋とほか1軒)・水堂・樋口新田の10軒程度は村に残ったが、知行所の大多数の村人がいっせいに村を立ちのき、武庫川下流域の尼崎藩領ほかの村々に逃げたのである。7月26日幕府は農民に帰村を命じ、翌1739年4月裁許を下した。下大市村庄屋は伊豆へ遠島、他の逃散4村の庄屋は重追放、29人が過料、大庄屋は戸締めとなった。しかし処罰は領主側にも及び、幸覃が拝謁停止、安東が追放に処せられた。反封建闘争というよりは、悪代官の非法によって起きた異例の事件であった。