遊女塚

ゆうじょづか
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  神崎町の梅ヶ枝公園にある神崎五人遊女塚の墓碑。戦前は神崎川の川岸に近い場所にあったが、再三移転した。寺町如来院の古縁起では、1207年(建永2)3月、法然が讃岐へ遠流のさい、神崎の地で5人の遊女が罪業深きを懺悔し、法然に念仏を授かり入水した。人びとはこれを憐んで遺骸を川岸に葬り遊女塚とした。法然は勅免により同年末讃岐を出て京都へ帰る途中、再び神崎釈迦堂(如来院の前身)において遊女らの菩提をとむらったと伝承されている。この塚については、1697年(元禄10)刊の『国花万葉記』が「上塚、一名傾城塚と云、神ざき村の渡り口より東」と最も早く記し、それより約100年後の寛政期(1796~1798・寛政8~10)に刊行された『摂津名所図会』には、「遊女宮城墓、神崎の北一丁許、田圃の中にあり。村民傾城塚又女郎塚とも呼ぶ。……後世尼崎如来院よりこゝに墓碑を建て、表には六字の名号、裏には遊女五人の名を鐫〔え〕る」と記している。この墓碑は、全高212cm、幅120cm、奥行100cmで両側面に「元禄五壬申年」、「正月」の建立時期が刻まれているが、背面に遊女の名が刻まれていた形跡はない。正面の名号の両側には、「弥陀仏と遊女墳も極楽の発心報士(土)の内の春けき」の歌が2行に陰刻されている。上田秋成は晩年、この遊女塚の伝承を遊女宮木を主人公として「宮木が塚」と題して描写し、「春雨物語」に収めている。

執筆者: 梅溪昇

参考文献

  • 梅溪昇「法然遺跡寺院としての如来院の活動について-付、西明寺について-」『浄土宗典籍研究』研究篇 1988 同朋舎出版
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