遊廓設置問題

ゆうかくせっちもんだい
遊郭設置問題より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1896年(明治29)8月ころ、元尼崎町長伊達尊親をはじめ商工業者・町会議員ら19名が県知事にたいして、別所村小役人町に尼崎ではじめて遊廓を設置したいという出願をした。その計画は3,732m2の地を一括して土地家屋貸与株式会社を設立するというものであった。その出願の趣意書によると、1880年および1883年にも出願し不許可となったが、近年商工業の発達とともに血気の職工が増加し、そのため私娼が増加して売春・梅毒がまん延し、また大阪・西宮の遊廓に遠遊して仕事を休むものも多く損失が多大である、これを防ぐには遊廓を設置するのが良策であるというのが理由であった。これにたいして、尼崎教会の伝道師内田尚長が、尼崎キリスト教青年会20余人を代表して廃娼論の立場から設置反対の陳情書を、同1896年8月25日付けで知事あてに提出した。知事は郡長を通じて尼崎町会にその免許の可否を諮問。士族出身でクリスチャンの小森貞治郎(町長小森純一の息子)が編集人を務める『琴陽雑誌』が反対の論陣をはるなど反対の世論が強く、9月15日の緊急町会が満場一致で設置賛成を議決(ただし出席議員10人、議長の小森純一ら11人欠席)するも、11月県は出願を却下した。さらに、1899年6月町議など6名が築地町に設置することを出願し、7月の町会はまたも満場一致で設置を可決した。しかし反対運動が行なわれたためか1901年4月出願却下となり、6月に再願したが再度却下となった。その後も尼崎町では設置の要望がつづいた。

執筆者: 山崎隆三

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