郷校
ごうこう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
近世後半期には藩は武士層の教育だけでなく庶民の教化にも意を注いだが、同時に民間の有志が資金を寄せて庶民のための学校(郷校)を設立する気運も高まった。備前岡山藩の手習所に起源をもち、1670年(寛文10)藩主池田光政の命により設立された閑谷学校や、1717年(享保2)摂津平野郷の有志が設けた含翠堂はその早い例である。尼崎藩において郷校がいつ開設されたか明らかでないが、1823年(文政6)版『続浪華郷友録』に、播州龍野出身の横山仙二が「始めて尼崎郷校を興し子弟を教授す」とあり、少なくともこの時期以前に、郷校が設けられたことを窺わせる。また、城下築地町に設けた郷校に1831年(天保2)教授師範として伊藤北窓を招き、藩は同年5月領内に入学奨励の触れを出した。触れでは領内の町在を問わず、家業の合間に希望者は郷校に入学して人としての道を学ぶように、そのことがやがて一村の風儀を整え、善に導くことになるとした。北窓が招かれて間もない1834年(天保5)、34歳で没したこともあり、郷校のその後の動向や、前述の文政期の郷校との関係も明らかでない。なお、尼崎藩に隣接する近衛家領伊丹郷町にも、1838年(天保9)有力酒造家らにより郷校明倫堂が設けられた。