重源
ちょうげん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
号は俊乗房。またみずから南無阿弥陀仏と称す。はじめ醍醐寺で真言を修するが、のちに浄土宗の法然に帰依する。入宋して中国の諸寺を訪ね、土木建築の技術なども修得して1168年(仁安3)に帰朝。平氏の南都焼討ちで炎上した東大寺の再建のため、1181年(治承5)に造東大寺大勧進職に補され、諸国をまわって募財の勧進につとめ、東大寺の復興をほぼ実現した。その間、造寺・造仏・写経・法会などを行なって民衆を教化するとともに、各地で港湾・池・道路の修改築や架橋などの社会土木事業を展開した。1196年(建久7)に大輪田泊・魚住泊(現明石市)とともに市域の河尻一洲の修築事業をおこなった。また、尼崎を輸送中継地として、周防国から奈良まで東大寺再建用の材木を運んだという所伝もある。
参考文献
- 小林剛『俊乗房重源の研究』 1971 有隣堂