野間荘
のまのしょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
川辺郡野間村(現伊丹市)から武庫郡友行・時友付近に位置した荘園。もと左大臣藤原頼長の荘園であったが、保元の乱の結果、1157年(保元2)2月、他の28か所とともに没官されて、後白河天皇の後院領となった。その後も、本家職は天皇家に引きつがれたが、領家職は高倉天皇の女房の伊予内侍に与えられたのをはじめ、いくたびか変遷し、鎌倉中期には延暦寺の妙法院門跡が知行するようになった。他方、野間荘の現地には、平安末期から友行名・時友名という、開発者の名に由来するとみられる大きな名田が存在したが、やがてそれが細分化し、そのうち数町の田地が、鎌倉期にはいると醍醐寺報恩院の所領となり、「野間田」「醍醐田」などと称して相伝されるにいたった。南北朝以降、本荘もいくたびか武士勢力の侵略をうけ衰退していくが、友行名・時友名は地名化し、近年まで、友行・時友という字名としてその名残りをとどめていた。