鉄鋼業
洋式反射炉を築造して大砲を鋳造することは、幕府や佐賀・薩摩・水戸の各藩などで、嘉永年間(1848~1854)から行なわれていたが、日本における近代的な製鉄事業は、1857年(安政4)南部藩士・大島高任たちの手になる釜石での洋式高炉の建設・製銑が端緒とされている。明治新政府は、「富国強兵・殖産興業」の旗印のもと製鉄事業の育成を重要施策の一つとして、幕府や各藩の設備を没収、直轄事業とするとともに、1875年(明治8)には工部省自ら、釜石鉱山の製鉄事業に乗り出した。しかしこの製鉄事業は軌道に乗らず、1885年田中長兵衛に払い下げられて釜石・田中製鉄所の源となった。また政府は、それまで種々建議されていた官営大製鉄所の建設案の具体化に着手、日清戦争(1894~1895)前夜の調査会設置、1896年、官営八幡製鉄所の官制発布、ドイツの技術による工場建設を経て、1901年2月には1号高炉出銑。つづいて製鋼・圧延工場も稼動し、こうして北九州八幡に、日本初の本格的銑鋼一貫工場の誕生を見た。
一方、この頃から日露戦争(1904~1905)後にかけては、民営鉄鋼企業の創業が相次ぎ、日本鋳鋼所(1899年、1901年から住友鋳鋼場)、小林製鋼所(1904年、1905年から神戸製鋼所)、川崎造船所兵庫分工場(1906年)、輪西製鉄所、日本製鋼所(1907年)、日本鋼管(1912年)などが誕生した。しかしその大部分は、主な需要を海軍や鉄道院などの官公需に求め、産出品も鋳鍛鋼や機械類に傾斜しており、生産品種においても生産量においても、官営製鉄所の間隙を埋める比重しか持ち得なかった。事実1908年の国内生産高は、銑鉄が14万5,000トン、鋼材は9.9万トンであったが、そのうち官営八幡製鉄所はそれぞれ71%、98%と圧倒的なシェアを占めた。当時の日本では、民営の銑鋼一貫工場が成立するための資金や技術の蓄積に欠けており、国営企業が突出する特異な構造が、永らく日本鉄鋼業を特徴づけることになった。さらに日本の鉄鋼自給率の低さは、英・独・米などからの輸入依存を構造化していたが、八幡製鉄創業後の1908年でもなお、自給率は銑鉄でやっと60%、鋼材はわずか20%であった。この供給不足を埋めるために流入する廉価な欧米製品はまた、国内民営企業の発達を抑制する作用をもった。
日本の鉄鋼業は、このような構造を内包しつつ、鉄鋼産業の第2拡大期となった第1次世界大戦(1914年~)を迎えるが、「鉄の街」としての尼崎市域の形成は、この時期から緒につく。
第1次大戦の勃発は、日本にも「鉄飢餓」といわれるほどの需要拡大をもたらし、鉄鋼企業の族生を促した。大戦直前22社だった日本の鉄鋼企業は、戦争終結の1919年(大正8)には209社に激増し、鉄鋼の生産量4年間で倍増した。尼崎市域では1901年に創設された岸本製鉄所が、1916年に製鋼工場を新設、製鉄への参入を意図していたが、この時期に乾鉄線(1917年、後の神鋼鋼線工業)、久保田鉄工所(1919年)、岸本製釘所・同製鉄所を買収して成立した住友伸銅所尼崎工場(1919年、後の住友金属工業鋼管製造所)、中山亜鉛鍍金工業所(1919年、後の中山製鋼所)、富永商店(1924年後の大同製鋼)などが新たに操業を開始し、阪神重工業地帯の中心を担う「鉄の街」が形成されはじめた。しかしこれらの鉄鋼企業は、住友伸銅所を除いては、いずれも製鋼設備を持たない鉄鋼の二次加工工場であった。
戦前の日本鉄鋼業の特殊性の一つとされ、市域鉄鋼業の特色ともなった「平・電炉メーカー」は、満州事変(1931年・昭和6)から日中戦争(1937年~)にかけての時期に、非財閥系で中小規模の金属問屋や加工業から製鋼-圧延メーカーへの参入によって、あいついで誕生した。
市域では折よく1931年臨海部を埋め立てた工業用地が完成、大阪製鈑(1932年)、尼崎製鋼所(1932年)、日本亜鉛鍍(1934年、後の日亜製鋼)、中山鋼業所(1935年)などが新たに立地して操業をはじめた。1937年には財閥系の先発各社に先行して、尼崎製鋼所との連係によって小規模ながら銑鋼一貫化を意図した尼崎製鉄も設立された。またこの時期、電気炉メーカーとしては大谷重工業(大谷製鉄が1940年改称)が西高洲で尼崎工場を稼動させ、富永商店は新設・移転した市内杭瀬の新工場で本格的な製鋼・圧延をはじめた。こうして市域の鉄鋼生産は、戦前のピークである1938・1939年には、粗鋼37万余トン、鋼材35万トンとそれぞれ全国生産の6%、7%を占めた。このころの尼崎は、堺・広畑等と並んで、日本製鉄の新鋭製鉄所建設の候補地に挙げられていたことが示すように、原料搬入や製品搬出の便、工場用水の取得や労働者募集の便など、同社の立地選定基準を満たした工場適地であった。
太平洋戦争中、尼崎は度々の空襲を経験したが、鉄鋼業の戦災被害は比較的軽微だったため生産再開は早く、1949年の対全国シェアは粗鋼で7%、鋼材では10%を記録した。翌1950年6月の朝鮮戦争勃発を契機に、「鉄鋼第1次合理化計画」の始動など、日本鉄鋼業の設備投資が活発化するが、この動向は市域の各社にも新規・更新投資を不可避にした。しかも敗戦による原料輸入の途絶が一方で、平・電炉各社の高炉メーカーへの依存を強めるとともに、他方では戦後高度化した技術水準と設備規模が、各社に戦前とは隔絶するレベルでの競争を迫っていた。このため、設備更新に踏み切った市域の平・電炉各社は、折からのデフレ不況下、資金調達のつまずきをきっかけとしてそれぞれ、大同鋼板は富士製鉄の、日亜製鋼は八幡製鉄の、尼崎製鋼所・尼崎製鉄は神戸製鋼の、先発大企業の系列に組み込まれることとなった。1956年からはじまる「鉄鋼第2次合理化計画」の時期以降、大手メーカーを中心に大容量高炉-LD転炉-ストリップミルを備えた大規模・高能率の新鋭製鉄所が続々と誕生しはじめ、1961年には日本の粗鋼生産は2,800万トンに達し、3位の西ドイツに迫った。市域の鉄鋼生産も1961年までの5年間は戦後最大の伸びを示し、粗鋼は4倍の120万トンに、鋼材は3倍の100万トンへと急激に増加した。しかしこの生産拡大の裏側では、尼崎の工場と市域外の新鋭工場との間で生産性格差が拡大していき、量産品種をはじめとして、生産の重点は市域外に移りつつあった。市域は1950年代からすでに過密で、新鋭一貫工場が必要とする660万m2といった広大な用地調達は望めず、そのうえ南部の工場地帯では、地盤沈下に起因する高潮や浸水被害が度重なって工場の操業を妨げていた。こうした事情から、1960年代に入ると市域鉄鋼企業・工場の川下進出=二次加工工場への編成替えが急速に進行した。その結果、1965年の市域鉄鋼生産の対全国シェアは租鋼2.7%、鋼材3.3%に縮小し、逆に亜鉛鉄板のそれは16%に上昇したのであった。1970年代前半になると、日本の粗鋼生産は1億トンの大台を超えて伸長するが、同じ時期、市域鉄鋼業の生産縮小は著しく、対全国シェアは粗鋼・鋼材ともに1%を割り込むに至った。こうして1955~56年当時、製造業出荷額の40%、製造業従業者数の25%を占めた市域における鉄鋼業の圧倒的な比率は、1985~1986年には18%と14%へ低下した。尼崎は、シンボルともいうべき神戸製鋼尼崎製鉄所の2号高炉吹き止め(1978年)が象徴するように、約半世紀を経て「鉄の街」としての産業構造を変えたのである。
参考文献
- 名和靖恭「高度成長第一期における尼崎市域鉄鋼業の『再編』過程」『地域史研究』第8巻第3号 1979
- 名和靖恭「尼崎市域鉄鋼業の構造変化」『市研尼崎』第22号 1979
- 名和靖恭「鉄の街の栄光と斜陽」『大阪春秋』第58号 1989
- 南昭二「尼崎工業の分析-鉄鋼業の衰退を中心として」『阪神間産業構造の研究』 1987 法律文化社