長洲
ながす
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
古代の尼崎における最も形成期の早い沿岸砂州の名残り。弥生期以降、漁民が住みつき、奈良時代には東大寺領猪名荘の中心地となった。中世になって京都の鴨社との間に長年にわたる紛争が生じた。しかしそれが動機となって、長洲前面に浮かぶ島嶼の大物・杭瀬・尼崎に逐次港の展開が見られ、後に近世城下町となる尼崎の形成の契機となった。
長洲という地名は、古くは「日本書紀」に登場する地名である。履中天皇5年10月条に、車持君が筑紫国に行き宗像神社に割き与えられていた車持部を奪いとった祟りで天皇の妃が死んだため、天皇がその罪を責めて祓〔はら〕え禊〔みそぎ〕を行なわせた地が長渚崎〔ながすのさき〕として描かれる。平安時代には、猪名荘の南の長洲浜に東大寺領の荘園長洲荘が形成され、さらに鴨社領長洲御厨が成立した。近世に入ると、1615年(元和元)に池田重利の領地となり、1617年(元和3)尼崎藩領となった。青山氏(幸成系)が尼崎藩に入封した1635年(寛永12)以降、中長洲・東長洲・西長洲・大物の4村に分けられたものと考えられる。1883年(明治16)8月15日、東長洲と中長洲が合併し長洲村となった。