長遠寺本堂・多宝塔・客殿
(長遠寺多宝塔より転送)
長遠寺所蔵の「大堯山縁起」(1705年・宝永2)によれば、かつては七堂伽藍を備え、子院16坊を数えたというが、この「縁起」の記されたころには子院5坊にへり、現在では1坊を残すのみである。現在残る主要堂宇は本堂・多宝塔・鐘楼・客殿・庫裏などである。
本堂
桁行〔けたゆき〕5間、梁間〔はりま〕6間、入母屋造〔いりもやづく〕り、本瓦葺で、正面中央1間に向拝〔こうはい〕を設ける。建立年代は棟礼から1598年(慶長3)が明らかで、その後、1623年(元和9)に現在地に再建され、さらに1707年(宝永4)10月4日の大地震により軒廻りおよび間斗束斗栱〔けんとづかときょう〕廻りを改変するなどの修理を施している。1983年(昭和58)の保存修理は、元和移築時の平面で施工されている。構造形式はつぎのとおりである。正面に木の階段3段をすえ、擬宝珠〔ぎぼし〕柱をたて登高欄〔のぼりこうらん〕つき、縁は四周につけ擬宝珠高欄を置く。向拝柱は面取り角柱、斗栱連三斗組実肘木〔つれみつどぐみさねひじき〕つき、中備〔なかぞなえ〕に蟇股〔かえるまた〕を配し、裏側に手挟〔たばさみ〕がつく。主屋柱は円柱、上下長押〔なげし〕をつけ、頭貫〔かしらぬき〕先端を木鼻〔きばな〕とする。斗栱和様三斗組実肘木つき、中備間斗束実肘木つき、内部は正面2間通りを外陣〔げじん〕とし、各柱上より虹梁〔こうりょう〕を架し、大瓶束〔たいへいづか〕上に三斗を組み、鏡天井の一郭をうけ、他は化粧屋根裏とする。内陣には堂中央の3間四方をあて、その両脇を脇陣とする。内陣中央背面寄りに須彌壇〔しゅみだん〕をすえ、上方に元和移築時および江戸中期ころの彩色を施す。このように、この堂は日蓮宗寺院に特有な構成を示すと同時に、平面の構成や改造の時期を知ることができ、その復元平面が中世から近世への過渡的な形態を示す点でも重要である。1974年に重要文化財に指定された。
多宝塔
比較的小規模なもので、方3間2層、本瓦葺である。建立年代は棟礼により1607年(慶長12)と明らかで、主体部分、組物などのよく原形を残していて、慶長期の様式をとどめている。上層は12本の円柱を円形に建て、台輪をのせて四手先斗栱を用い、小天井下張り、支輪をまわし、尾垂木〔おだるき〕を納め、四手先目には木鼻を飾る。軸部には内法長押〔うちのりなげし〕を打ち、額縁をまわし盲連子〔めくられんじ〕を入れる。縁は亀腹上にあり、高欄をすえ、和様三斗挙鼻付で縁葛をうける。下層は方3間、周囲に擬宝珠高欄つきの縁をめぐらす。柱は円柱にして、台輪内法長押・縁二重長押をまわし、四方とも中央の間には幣軸をつけ、板唐戸を入れ、両脇間には腰長押を打ち盲連子窓をはめる。斗栱は二手先〔ふたてさき〕で、軒天井・支輪・隈尾垂木をもち中央間中備には蟇股、脇間では蓑束〔みのつか〕を飾る。このように規模のわりには入念につくられた多宝塔であるが、下層縁に高欄をすえるなど時代の新しさをうかがわせるものがある。1974年に重要文化財に指定された。
客殿
桁行約15m、梁間約11m、入母屋造り、本瓦葺。建立年代は棟礼により1613年(慶長18)と明らか。1617年(元和3)、他の建物と同様に移築され、1707年(宝永4)の大地震で倒壊したことが知られる。平面は一般にみられる6間取りとし、後面中央に内陣、左に書院、右に納戸、前面中央に室中、両脇に10畳間2室を配する。建物の正面と書院のつく左側面の2面に広縁をまわし、この2面の外側に落縁〔おちえん〕をめぐらす。内陣以外の天井は7~9通りの猿頬面の棹縁天井〔さおぶちてんじょう〕で、広縁は鏡天井である。また、正・側面3方の軒は、一軒疎垂木〔ひとのきまばらだるき〕の木舞軒、背面は野垂木を化粧に見せるが、隈木の納まりより当初は他の三方と同じ化粧軒であったと考えられる。妻は木連格子、前包付、破風〔はふ〕はかぶら懸魚鰭〔げぎょひれ〕つきのものを飾る。1965年(昭和40)、県指定文化財となった。