関西ペイント
合資会社岩井本店を持株会社として再編し、工業経営に乗り出した岩井勝次郎により、1918年(大正7)5月に創設された。新会社関西ペイント(株)の資本金は50万円、本社および工場には、小田村神崎の農地5万7,000m2が充てられ、同年内には工場が稼働を始めた。岩井本店の専務・安野譲が兼任で社長に就き、専務取締役、技師長には玉水弘が名を連ねた。玉水は東京帝大応用化学科卒の技術者で、先発メーカーの日本ペイント、東亜ペイント取締役・技師長を経て1916年に独立、西宮町に関西ペイント工業所を創業、従業員30人余で顔料・塗料の製造販売をはじめていた。同級生で東京帝大助教授の田中芳雄の斡旋で、玉水の事業を新会社に譲渡し、岩井本店が出資と販売支援を受け持つということで合意ができたのである。発足後数年間、会社は従業員140~150人、年間売上60~70万円の規模であった。
しかし、同年末の第1次世界大戦終結、それに続く戦後恐慌のもとで、新会社の業績は長期低迷を余儀なくされ、累損を解消して復配にこぎつけるのは1930年(昭和5)、売上が伸長をみせはじめるのはやっと1932年だった。1937年、日中戦争の開始は軍需生産増強の要請を強めたが、一方では原料の逼迫を結果した。このため満州・朝鮮・上海など海外に生産拠点を創設するとともに、国内関連メーカーへの資本参加・合併をすすめた。1944年、軍需会社に指定された本社工場は翌1945年6月15日の空襲で約3分の1が焼失したものの、ペイント、エナメルなど主力設備は残ったので10月から生産が再開された。戦前のピークは1939年で生産高は全社で2,200トン、従業員1,139人であった。
戦後、1948年には過度経済力集中排除法の指定会社とされたが、同年末指定は解除され、翌1949年、大阪・東京・神戸の3証券取引所に上場した。1955年、大阪支店は大阪本店となり、尼崎の本社工場は尼崎工場と改称された。工場は6,500トン(1990年)の月産能力を持ち、同社の主力製品、自動車用塗料の拠点工場となっている。
参考文献
- 『明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ』 1979