関西合同労働組合

かんさいごうどうろうどうくみあい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1927年(昭和2)4月17日、尼崎市立図書館で創立大会を開き、組合同盟傘下の尼崎労働組合、北摂労働組合、大阪労働組合を統一した。前年末の組合同盟結成にさいして、総同盟大阪金属労働組合西九条支部を率いる浅井富次郎らは評議会幹部の国領五一郎から共産党関西地方委員会の指示を受けて大阪労働組合を結成、久保田鉄工所従業員で五一郎の弟でもある国領巳三郎総同盟尼崎連合会反幹部派を率いて尼崎労働組合結成に加わった。レフト(共産党員・同調者からなる非合法組織)常任委員会が1927年2月には関西合同労働組合の設立を協議決定し、創立大会で顧問藤岡文六のほか執行委員長浅井、争議部長兼財政部長国領巳三郎、教育部長兼書記喜入虎太郎ら共産党員を選出した。乾鉄線争議では工代会議を主催し、藤岡の調停工作を挫折させた。7月20日、喜入が組合同盟を除名され、8月31日、日本電線・鈴木製材・兼重3支部は北摂労働組合ともども関西合同を離脱した。10月15日の関西合同尼崎支部創立総会も出席者は10人、支部長木田孫右衛門、書記上森四郎ら乾鉄線解雇者の小サークルに矮小化、浅井・上森・喜入・国領巳三郎らの3.15事件連座で名実ともに消滅した。

執筆者: 岩村登志夫

参考文献

  • 岩村登志夫「乾鉄線争議と尼崎工代会議」『兵庫史学』第49号 1968
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