阪神朝鮮人学校事件
(阪神教育闘争より転送)
1948年(昭和23)4月、在日朝鮮人による民族教育闘争のなか、阪神間で起こった事件。戦後、在日朝鮮人(韓国・朝鮮人)たちは朝鮮語講習会という形で母国語を学び始めたが、それはやがて朝鮮人学校へと発展していった。1948年当時尼崎では、尼崎・大島・武庫・常松・立花・園田の6つの朝鮮人学校が設立されていた。
他方、当初在日朝鮮人に対して本国(ただし、南朝鮮のみ)への帰還を奨励していた占領軍は、1946年12月末その終了を一方的に宣言し、以後在日朝鮮人を「日本国民」として扱うとした。これを受けて、1948年1月24日文部省は、朝鮮人子弟に居住地域の公・私立小学校への就学を求めるとともに、朝鮮人学校に対して閉鎖命令を出した。同年4月10日、兵庫県知事は朝鮮人学校に閉鎖命令を出した。それは、米ソ冷戦が深まるなか、占領軍が反共政策に転じ、朝鮮人学校が共産主義教育を行なっているとして警戒を強めたことにも深くかかわっていた。
これに対し、母国語を封じ民族教育を抑圧するものであるとして、各地で在日朝鮮人が反対運動を起こした。その拠点の一つとなったのが兵庫県であった。同24日数千人の朝鮮人が県庁周辺に集合し、代表が知事らを軟禁するかたちで交渉を行なった。その結果、神戸市内の3朝鮮人学校閉鎖命令が撤回され、さきに逮捕されていた朝鮮人70人も釈放された。ところが、占領軍は事件を占領政策への公然たる挑戦とみ、同日深夜神戸基地司令官の名で占領下唯一の「非常事態宣言」を出し、アイケルバーガー第8軍司令官の来神をえて、日本の警察も動員し1,732人を逮捕、136人を軍事裁判にかけ、最高重労働15年を科した(第1次神戸朝鮮人学校事件)。尼崎でも4月27日、MP40人を中心に、朝鮮人21、日本人22の計43人が逮捕された。以後、占領軍は公安条例制定を推進するとともに、団体等規制令によって朝鮮人団体への弾圧を強めた。
参考文献
- 尾崎治『公安条例制定秘史』 1978 拓植書房
- 金慶海編『在日朝鮮人民族教育擁護闘争資料1』 1988 明石書店