防潮堤

ぼうちょうてい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
完成時(1954年)の防潮堤
完成時(1954年)の防潮堤

  尼崎では戦前から地盤沈下がはげしく、1934年(昭和9)の室戸台風1950年ジェーン台風に際して大きな高潮被害を受けた。このため、すでに1943年から4か年計画で県と大阪府による防潮堤建設が予定されていたが、戦前には実現しなかった。戦後、19481950年尼崎港改修の一環とし、県によって防潮堤工事が実施されほぼ完成していたが、1950年9月のジェーン台風被害の経験から海岸線全域をおおう大規模防潮堤建設の必要性があきらかとなった。このため、ジェーン台風直後から国・県・市の間で検討を開始し、六島誠之助市長を先頭とした市の強い主張が入れられ、12月には大部分を県の直轄工事、一部を運輸省第三港湾建設局の委託工事として実施し、島状区画ごとに堤を築く輪中式ではなく全体をおおう閘門式を採用すること、総工費20億円のうち国が4割、市と県が3割ずつ負担することに決した。国の5か年計画に対して、毎年のように水害に見舞われる市は3か年計画を主張、このため国・県負担金を一時市が立て替えて工事を実施することとなった。

1960年代後半の防潮堤
1960年代後半の防潮堤

  1951年2月16日、O.P.(大阪湾最低潮位)6~7m、幅5~9m、延長12.4kmにおよぶ防潮堤工事が武庫川神崎川河口部分から着工。この年4月の市長選挙で六島市長にかわって阪本勝が当選、防潮堤工事も引き継いだ。まず資金調達に取り組んだ阪本市長は、大企業に資金借用を申し入れるかたわら、同年秋には尼崎防潮堤工事促進後援会をも発足させ、1951年中に工場・会社関係から寄付金1億2,000万円、市民寄付金3,000万円など計4億8,300万円を調達する計画をたてた。寄付金は1957年までかかって結局目標の65%しか集まらず、その分市の一般財源にしわよせがくることとなった。1951年度は一般財源から防潮堤建設に3億2,923万6千円が支出された。これは、この年度の一般会計歳出決算額20億6,496万2千円の16%におよぶ。さらに1953年度まで3か年にわたって計4億8,632万円が一般財源から支出された。最終的な工事費総額30億1,351万円と当初予定を大幅に超過した。

  1954年4月、庄下川下流部分に1,000トン級貨物船でも通過できる大規模閘門が完成、これにあわせて「尼崎大防潮堤完成記念 栄える産業博覧会」が尼崎競走場と阪神パークを会場として1954年3月20日から5月19日まで開催されたが、興業的には失敗した。工事はその後も続けられ、閘門1基・水門3基・樋門1基を備えた防潮堤が1956年3月竣工した。すでに建設途中の1954年秋から台風による高潮被害に対し大きな威力を発揮したが、1960年ころから地盤沈下が進行したため、その後2次にわたって嵩上げ工事を実施しO.P.7mを維持した。一方、戦後悪化を続けていた市財政はジェーン台風被害復興と防潮堤建設の支出により、1954年度末段階で8億200万円におよぶ巨額の累積赤字をかかえ、阪本市長にかわった薄井一哉市長のもと1956年地方財政再建促進特別措置法の適用を受け財政再建団体となった。

執筆者: 地域研究史料館

参考文献

  • 『尼崎閘門式防潮堤工事記念写真帳』 1955 兵庫県・尼崎市・第三港湾建設局
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