除痘館
じょとうかん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
大坂を中心に緒方洪庵によって1849年(嘉永2)から種痘事業が始まり、ただちに尼崎地域にも普及し、「尼ヶ崎大学寺町除痘館」ができた。これは大坂除痘館が同年11月に出した種痘勧奨ビラをそのまま利用して「尼ヶ崎大学寺町除痘館」および「尼ヶ崎世話人村田屋源助・枡屋六兵衛」の判を押したものがあることで判る。「大学寺町」の町名は今消えているが、近世初期の「大覚寺町」(大物〔だいもつ〕橋を南へ渡った東西の通り)を訛ったものであろう。世話人枡屋六兵衛が大坂の伏見唐物定問屋であり、洪庵が事業の協力者に頼んでいたと推定できるほかは、本除痘館の活動については資料欠如で不明である。ただ、大坂除痘館の他所方苗所中に「尼崎億川翁介」の名があり、大学町除痘館で種痘を担当したのは、翁介すなわち、洪庵の妻、億川八重の弟信哉(億川一郎の父)と考えられる。この大学寺町除痘館は1867年(慶応3)6月、藩立種痘館へ発展した。この藩立種痘館は大物町の御城への登り口に建てられたもので、大学(覚)寺町と極めて近接している。しかし、大学寺町除痘館と藩立種痘館とが同一建物か否かについては断定できる資料がない。
参考文献
- 『尼崎市医師会六十年史』 1981 尼崎市医師会
- 梅溪昇「尼崎地域近代化の特質」『日本近代化の諸相』 1984 思文閣出版