難波

なにわ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  現在の庄下川蓬川に痕跡を残している旧武庫川の分流河口付近を指し、古代からの地名と思われる。仁徳天皇にまつわる難波の梅の伝説が伝えられている。史料上の初見は1304年(嘉元2)「浄土寺門跡寄進米上日記」(勝尾寺文書/『尼崎市史』第4巻)。橘御園の荘域に属した。これより早く「勘仲記」弘安2年(1279)3月17日条に登場する、尼崎浜付近の関白鷹司家別荘・難波江館はこの地にあったものと考えられる。1208年(承元2)関白近衛家実が橘御園に方違〔かたたが〕えに訪れたのも、この難波江館であろう。のち室町~戦国時代には、京都通玄寺(曇華院)領であった。

  応仁の乱から戦国時代にかけての記録には、いくたびか合戦の地として登場しており、城(砦)があったとも記されている。「細川両家記」永禄9年(1566)7月17日条には難波東西という記述があり、戦国時代に東難波西難波に分離していったと考えられる。

執筆者: 地域研究史料館

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