電力産業
関西地域における電力産業の特色の1つは、電燈会社(大阪・京都・神戸)や電鉄会社などによる多極的電気供給体制にあった。阪神電鉄は1908年(明治41)尼崎町・大庄村、1910年小田村、1914年(大正3)立花村、1915年武庫村、宇治川電力は1912年尼崎町・小田村、阪急電鉄は1921年武庫村・立花村にそれぞれ配電した。この複雑な配電の入り組みがやがて1920年代の「電力戦争」や電燈料金値下げ運動の原因となった。1920年代の産業の発展は電力供給不足を呼び、関西、特に尼崎地域に大容量の火力発電所が集中して建設されることになった。阪神電鉄の東浜発電所(1921年)、日本電力(株)の尼崎発電所(1925年-出力5万kW、1928年-出力14万kW、いずれも当時日本最大、のち尼崎東発電所)が完成。さらに関西共同火力発電(株)の尼崎第一発電所(1936年-出力31万8,000kW、当時東洋最大)、同第二発電所(1939年-出力13万5,000kW)が完成。1939年(昭和14)4月、国策会社日本発送電(株)創立時には、4発電所の合計出力が61万2,600kWとなり全国の火力発電の31%、近畿地方の57%を占めた。このことは同時に煤煙をはじめとする公害問題を引きおこした。1933年、市民の苦情が発生し、翌年衛生組合連合が抗議と交渉を行なった。1936年には市会に煤煙防止河川浄化委員会が設置され、市当局をも動かして公害反対運動を行なった。戦後、1950年代の中ごろよりふたたび大気汚染が深刻化し、1963年重油専用の尼崎第三発電所の操業開始前後より亜硫酸ガスの発生が急増した。数次にわたる公害防止協定の締結の結果、関西電力尼崎第一・第二発電所は1974年9月と1976年3月に廃止された。
2001年(平成13)12月15日、尼崎第三発電所と尼崎東発電所が廃止され、市内からすべての火力発電所が消えた。
参考文献
- 『関西地方電気事業百年史』 1987