電燈料金値下げ運動
でんとうりょうきんねさげうんどう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
電燈争議・電気争議とも呼ばれる。1928年(昭和3)富山県滑川〔なめりかわ〕町にはじまって全国に波及した電燈料金値下げ運動は、不況期の労働者や都市小市民層による独占的公共料金値下げ運動のひとつであった。当時阪神地区の電燈・小口電力をほとんど独占的に供給し、1割3分ないし1割の配当率を維持していた阪神電鉄に対し、1928年8月11日尼崎市会の公声会所属議員6人が値下げを申し入れたのが発端となって、8~9月に西本町商店街など商業者による阪神電鉄への陳情や市会への要望が続いた。阪神電鉄は8月18日部分的値下げを発表したが、一般家庭ではわずか月2~4銭負担減の見込みであった。これに対して市会では電燈電力問題調査委員を設置し、値下げ案の討議や、本来公営であるべき電気事業料金について自治体との協議を義務付ける法改正を求めた意見書の採択等を行ない、桜井忠剛市長が阪神電鉄との交渉にあたったが、11月中旬以降は運動からはなれた。
一方、10月5日社会民衆党が阪神電灯電力値下期成同盟会(阪神沿線電灯料値下期成同盟会と記す史料もある)を結成して阪神の配当3分減による料金3割値下げを主張し、総同盟尼崎連合会も応援を決定した。以降は運動が本格化し阪神沿線全域に拡大、不払いと会社側の送電停止など1929年にかけて運動が高揚したが、翌1930年にかけての総同盟第3次分裂などにより運動が後退、当初の値下げ以上に成果のないまま不払いの棒引きで妥協して終ったようである。
参考文献
- 小野寺逸也「昭和恐慌期における阪神地区の電燈料金値下げ運動」『地域史研究』第1巻第1号 1971