青山幸秀
あおやまよしひで
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1743年(寛保3)正月までは幸侶と号した。尼崎藩青山氏4代目藩主。1710年(宝永7)10月16日に父幸督〔よしまさ〕の遺領を継いだ。翌1711年2月11日、信濃国水内郡飯山(現長野県飯山市)へ移り、1717年(享保2)丹後国宮津(現京都府宮津市)へ移った。江戸在府中に病死、49歳。江戸青山の梅窓院に葬られた。法号は覚樹院英誉了雄忠山。
幸秀が丹後国宮津藩主であった時代に生まれた7男忠高〔ただたか〕が、1754年(宝暦4)8月に青山氏の宗家である忠俊系の当主忠朝〔ただとも〕(丹波国篠山藩主)の養子となり、1760年(宝暦10)9月に忠朝が死去すると家督を継ぎ篠山藩主となった。忠朝は幸秀の父幸督〔よしまさ〕の次男で、忠高と同じく青山氏(幸成系)から出た養子であり、幸成系は2代続いて当主の子息が青山氏宗家当主の養子となり、家督を相続することになった。
参考文献
- 『郡上八幡町史』史料編3 1987