風呂辻町
ふろつじちょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
中世尼崎町のうち辰巳町と市庭町・別所町の間に位置し、当時すでに町場化していたが、町名を記した中世文書については未詳。大覚寺の東側に、同寺の開祖琳海上人〔しょうにん〕が鎌倉後期に再建したと伝えられる湯屋があり、風呂辻という地名はこれに由来するのではないかと考えられる。1572年(元亀3)には同町の市場巽〔たつみ〕に、信長の命により長遠寺が建立された。
近世にも町人の居住する町場であったが、1618年(元和4)に開始された城下町建設に際しては、中世以来の尼崎四町のなかで最も大規模な改造が行なわれた。この工事による本地子の減免比率によれば、町場の30%以上が道路の新設・拡張のため転用されている。この時、長遠寺も寺町へ移転した。「尼崎領尼崎町本地子」(金蓮寺〔こんれんじ〕旧蔵文書写)には戸田氏の時代の石高55.874石、地子米27.937石、「築地町式目帳」(『尼崎市史』第5巻)には1769年(明和6)の惣町間口515.5間、「城内・城下間数・家数書上げ」(年不詳、同前)には家数130軒とある。浄土真宗本願寺派正光寺があったが1955年(昭和30)東大物〔だいもつ〕町に移転した。
1930年の町名改正と1958年の土地区画整理により東本町の一部となった。本町筋が本町通商店街として栄えたが、1945年(昭和20)家屋疎開の対象となり消滅した。