高師直
こうのもろなお
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
? - 1351年(正平6・観応2)2月26日
足利尊氏の執事として、その挙兵以来数々の武功をあげ、室町幕府の創設とともに師直が執事、弟師泰が侍所となって幕府の枢機を掌握し、新興武士の組織化にもつとめた。1338年(延元3・暦応元)10月に、摂津守護赤松範資に対して、兵庫・神崎・渡辺の関所の収益を興福寺修理料に充てるよう命じ、1340年(興国元・暦応3)3月には紀伊の海賊泰地と塩崎の一族に、周防から尼崎までの廻船などの警固を命じたりしている。これらは、いずれも師直が瀬戸内海航路と新興武力の掌握につとめていたことを物語る。しかし、やがて尊氏の弟直義と権勢を競って対立し、1349年(正平4・貞和5)に争乱が勃発、尊氏が師直をかばったため直義は南朝に降り、各地で激戦が展開された。1351年(正平6・観応2)2月、摂津小清水(現西宮市)合戦で師直が敗北したのを機に、尊氏と直義の和睦が成立した。その直後の同月26日、帰順して上洛途中の師直・師泰兄弟らは、直義方の上杉能憲に襲われ武庫川の堤付近で殺された。現在、尼崎市との境界に近い伊丹市寺本に師直塚がある。
参考文献
- 佐藤進一『南北朝の動乱』 1965 中央公論社