鵜飼石斎
うがいせきさい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
名は信之、宇は子直、号は心耕子・石庵・貞節。父は近江国甲賀出身で諸国を浪々した鵜飼次郎左衛門真元。母は中路氏。江戸の生まれた。20歳前後で京都に遊学し、藤原惺窩〔せいか〕の高弟那波活所〔かっしょ〕に学んだ。林羅山に師事したとする説もある。1646年(正保3)尼崎藩主青山幸利に仕え、侍講として藩主・藩士に講義した。1660年(万治3)に藩を辞すまでの30歳代から40歳代前半期に31種673巻にのぼる訓点本・訓校本・著作の大半が完成したとみられ、その間における藩主幸利の好遇があずかり力のあったことが察せられる。著書として広く知られたのは『本朝編年小史』7巻(1662年刊)である。致仕後は京都油小路に私塾を開き、子弟の教育にあたった。石斎の第2子錬斎は山崎闇斎の門に学び、水戸藩儒佐々十竹の推挙により水戸光圀に仕えた。錬斎の学才と京都の事情に明るい点から、十竹らとともに京都における史料採録と公卿諸家との周旋の任を与えられた。1692年(元禄5)水戸彰考館第5代総裁に任命された。石斎の第4子称斎も水戸藩史官として『大日本史』の紀伝編修に活躍した。
参考文献
- 平清次「稿本鵜飼石斎(上)」『兵庫史学』第1号 1957 兵庫史学会