キリンビール神崎工場
(麒麟麦酒より転送)
1870年(明治3)横浜外国人居留地において米人W.コープランドにより設立されたスプリング・バレー・ブルワリーを継承して、1885年に渋沢栄一・岩崎弥之助等の日本資本も参加してジャパン・ブルワリーが設立され、それをさらに継承して1907年豊川良平・近藤廉平等の三菱系の人々を発起人とし、岩崎家を大株主として設立されたのが麒麟〔きりん〕麦酒(株)である。神崎工場は、第1次大戦期のビール需要の急増に対応するために、1918年(大正7)4月小田村潮江に新設されたものであり、西日本向けのビールと朝鮮・台湾・満州等への移輸出用ビールを製造していた。同工場の新設に際しては、大戦のためドイツから機械を輸入しえず、ために機械は壜詰・仕上の一部は米国製のものを使用したが、他は全て国産の三菱神戸造船所製のものを使用していたのである。神崎工場の建設費は約300万円、敷地約2万5,000坪、発酵室総量1,800石、貯蔵室総量3万石、壜詰装置1列、従業員170人を数え、排水浄化装置を具備していた。同工場の設備能力は、関東大震災ののち1926年に竣工した横浜工場より大きく、同社の主力工場をなしており、第2次大戦後にも継続して拡張・更新工事がなされていた。1949年(昭和24)1月に尼崎工場と改称された。1997年(平成9)に神戸市北区に移転予定。
神崎工場は1916年(大正5)の秋に建設が決定され、同年12月小田村潮江の土地25,091坪を買収、1917年6月5日に地鎮祭を執り行い着工、1918年4月27日に竣工届を行ない、同年6月28日ビール醸造を開始した。
尼崎工場については、JR尼崎駅北側に実施される再開発事業への用地提供が長年にわたって尼崎市から要請され、1985年(昭和60)8月以降は再開発事業の主体である住宅・都市整備公団が交渉に加わり、キリンビールに対して再開発事業への参加を強く要請した。キリンビール側は、これに対する対応策を調査検討し、尼崎工場の閉鎖、神戸新工場の建設・移転を決定した。1996年(平成8)8月31日、尼崎工場が操業を終了。一方、神戸市北区の神戸工場建設工事は1995年8月に着工し、1997年5月に工事完成、同月12日に製品出荷を開始した。
参考文献
- 『麒麟麦酒株式会社五十年史』 1957
- 『麒麟麦酒の歴史-戦後編』 1969
- 『キリンビールの歴史』新戦後編 1999