14世紀

1394年より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  年表:

  世紀: 13世紀 - 14世紀 - 15世紀


  1301年から1400年までの100年間を指す。

14世紀の年表

  • 1301年(正安3)
    • 12月4日 - 神崎渡辺両関所の津料が、院宣によって興福寺大乗院門跡の勅願料として講堂などの造営費にあてられた。
  • 1302~03年(乾元年中)
    • このころ - 杭瀬庄東大寺と比叡山浄土寺により和与中分された。
  • 1304年(嘉元2)
    • 12月17日 - 真言宗寺院の勝尾寺(現箕面市)は、浄土寺門跡が永代寄進した難波・恒富・生島など橘御園の村々からの寄進米を受け取った。
  • 1306年(嘉元4)
    • 3月20日 - 僧祐幸は武庫西条にある私領田1段を、尼崎中在家の熊鶴左近尉に売り渡した。
  • 1307年(徳治2)
    • 1月7日 - 六波羅探題は、京都八坂法観寺に一洲兵庫渡辺3か所の商船津料を沙汰するよう命じた。
  • 1308年(延慶元)
  • 1309年(延慶2)
    • 2月23日 - 東大寺の僧である了尊らは、兵庫関雑掌の僧澄承が契約年季を過ぎても津料の未進を弁済しないので、長洲庄雑掌として別人を任命することとし、その後は決して澄承を任命しない旨の起請文を交わした。
  • 1312年(正和元)
    • 6月 - 鴨社は、同社の社領である長洲御厨長洲大物尼崎の野地村と前田開発田に対して、東大寺の使者澄承が乱妨狼藉し神物を抑留したと朝廷に訴えた。
    • 8月26日 - 幕府は、杭瀬荘猪名荘など先に地頭を補任した東大寺領荘園を同寺に返付するよう六波羅に命じた。
  • 1313年(正和2)
    • 2月 - 尼崎一洲兵庫渡辺三カ津の目銭の半分が、東大寺東塔修造のために寄進された。
    • 5月6日 - 藤原の氏長者は、重大な難事が起きた場合、春日社神人で同社法華八講杉櫃の沙汰人を勤める尼崎住人教念らに合力せよとの興福寺衆徒の決定を浜崎神人に重ねて下知した。
    • 8月 - 長洲荘住人の教念法師は、幕府から強盗・海賊として追われるのを逃れるため、興福寺寄人と称して同寺に開発田を寄進しようとした。
  • 1314年(正和3)
    • 2月3日 - 東大寺は、同寺領長洲荘内の教念法師開発田を没収して同寺の支配とし、興福寺など他寺を介入させないよう、朝廷に訴えた。
    • 5月21日 - 鴨社長洲御厨領家は、同御厨内大覚寺の敷地を住民が押妨するのを止め同寺敷地を安堵する旨を御厨の司・番頭らに命じた。
    • 10月10日 - 幕府は大山崎八幡宮の荏胡麻等の諸関所津料を院宣のとおり免除するよう命じた。
  • 1315年(正和4)
  • 1317年(文保元)
    • 5月21日 - 東大寺学侶・衆徒らは、東大寺と分有している尼崎一洲などの三カ津目銭を、住吉社が悪党を扇動して独占しようとしていると朝廷に訴えた。
  • 1318年(文保2)
    • 12月26日 - 東大寺衆徒らは、後醍醐天皇によって廃止された兵庫関および回収された三カ津目銭の返還などに努める旨の起請文を記した。
  • 1320年(元応2)
  • 1321年(元亨元)
  • 1323年(元亨3)
  • 1326年(嘉暦元)
  • 1327年(嘉暦2)
  • 1329年(嘉暦4)
    • 2月21日 - 六波羅探題は、橘御園雑掌秀恵が訴えた伊丹村住人西道の所当米抑留の件について、伊丹左衛門三郎に西道出頭の請文提出を命令した。
    • 4月7日 - 東大寺衆徒は、同寺領長洲荘および野地村預所の澄承を殺害した同荘地下人である江三入道教性らの処罰を幕府に要求した。
  • 1330年(元徳2)
    • 5月11日 - 東大寺衆徒が、備前国御家人松田小五郎の猪名庄下司職押妨および乱妨狼藉停止を幕府に訴えた。
    • 10月 - 尼崎の熊鶴左近は田1段を同所住人橘氏女に売り渡した。
  • 1332年(南朝:元弘2)(北朝:正慶元)
    • この年 - 伊予の御家人河野通治は、六波羅探題増援のため四国勢をひきいて尼崎に上陸し京都へ入った。
  • 1333年(南朝:元弘3)(北朝:正慶2)
    • 閏2月23日 - 赤松勢に加わっていた播磨太山寺の衆徒らは、この日の尼崎の合戦と翌日の坂部村の合戦などに参加した。
    • 3月10日 - 瀬川の六波羅勢に対して久々知坂部に陣をはっていた赤松勢は、尼崎に上陸した阿波の小笠原勢に背後から急襲された。
    • 8月 - このころ、東大寺は建武政権による関所の廃止に対して兵庫島升米の復活を陳情した。
  • 1334年(建武元)
    • 12月25日 - 東大寺衆徒は、興福寺への淀関返付などの例に基づいて兵庫関の復活と目銭徴収の再開を後醍醐天皇の建武新政権に願い出た。
  • 1335年(建武2)
    • 6月21日 - 僧頼然と請人信祐が、東大寺領長洲荘の在家にかかる間別地子を取り立てる雑掌職を、年35貫文で請け負った。
  • 1336年(南朝:延元元)(北朝:建武3)
    • 1月23日 - 足利尊氏が椋橋荘東大寺に寄進した。
    • 2月10日 - 足利尊氏方の細川・赤松勢は打出浜(現芦屋市)で楠木正成を破り、翌日瀬川河原(現箕面市)で新田義貞と合戦した。
    • 5月25日 - 湊川合戦で楠木正成が敗死した。
    • 5月28日 - 足利尊氏が高野山安養院領の小屋荘に軍勢の乱妨狼藉を禁じる御教書を下した。
    • 6月 - 神崎・加島など淀川沿岸の住人らは天皇方に加担し、八幡・山崎間の大渡の橋をおさえて足利尊氏方の河尻への道をふさいだ。
    • 8月27日 - 北朝方の光厳院は醍醐寺報恩院領野間の雑掌の訴えにより、中務左衛門入道らの押領を停止して雑掌が地下で荘務を行なえるようにと足利尊氏に命じた。
  • 1337年(南朝:延元2)(北朝:建武4)
    • 10月17日 - 足利直義は京都東福寺の造営材木運送について兵庫・淀関以下の場所を与え、関手・河手の徴収を禁じた。
  • 1338年(南朝:延元3)(北朝:暦応元)
    • 8月 - 貴志義氏は、尼崎在陣中の赤松則祐に属した。
    • 9月27日 - 長洲御厨代官は、罪科人の跡として収公した御厨内長福寺裏の屋敷が先に家主から大覚寺に寄進されたものだったので同寺に返した。
    • 10月19日 - 室町幕府の執事である高師直は、興福寺修造料として神崎・渡辺の升米および兵庫島目銭の復活を摂津国守護赤松範資に命じた。
    • この年 - 尼崎番匠が権門社寺の大工とともに石清水八幡宮の再建に加わった。
    • この年 - 東大寺の法華・中門両堂は軍忠の恩賞として椋橋荘の田租の配分を幕府に望んだ。
  • 1339年(南朝:延元4)(北朝:暦応2)
  • 1340年(南朝:興国元・延元5)(北朝:暦応3)
    • 3月14日 - 室町幕府の執事である高師直は、紀伊の海賊泰地と塩崎の一族に周防竈門関から尼崎までの間の西国運送船・廻船の警固を命じた。
    • 9月27日 - 足利直義は、前の雑掌祥珠の南朝方与同をもって没収した猪名荘長洲野路開発田を東大寺雑掌の訴えを認めて同寺に返した。
  • 1341年(南朝:興国2)(北朝:暦応4)
    • 4月23日 - 京都の東寺は修理料所として幕府から昆陽寺荘を寄進され、塔の木作り始めを行なった。
  • 1345年(南朝:興国6)(北朝:康永4)
    • 8月22日 - 浜崎荘黄衣神人神崎に住む右近太郎・福田三郎らは、広田社の祭礼で魚貝持売りの進上銭をめぐって広田社神人らと争った。
  • 1347年(南朝:正平2)(北朝:貞和3)
  • 1348年(南朝:正平3)(北朝:貞和4)
    • 10月10日 - 足利直義は、尼崎の賢慶法橋が請負った昆陽荘の請料1,700貫を東寺に寄進した。
  • 1351年(南朝:正平6)(北朝:観応2)
  • 1352年(南朝:正平7)(北朝:文和元・観応3)
  • 1353年(南朝:正平8)(北朝:文和2)
    • 3月23日 - 吉良満貞・石塔頼房らが神崎辺に進出し、吹田辺で土岐頼康勢と合戦になった。
  • 1354年(南朝:正平9)(北朝:文和3)
    • 9月17日 - 足利尊氏は、高野山安養院領昆陽寺西荘に対する武士等の乱入狼藉や荘内の土民が寺命にそむくことを禁じた。
    • 12月9日 - 北朝後光厳天皇は、潮江新免などを泉涌寺領とした。
  • 1355年(南朝:正平10)(北朝:文和4)
    • 3月12日 - 守護代間島安芸守は、幕府の命令によって春日社富松両郷に対する押領・乱妨を停止して下地を両郷雑掌に返すよう桜井助房に命じた。
    • 3月18日 - 足利義詮は、東福寺造営料木および年貢の関米・河手免除を諸関に触れるよう赤松範資に命令した。
    • 10月 - 富松両郷の雑掌幸範は、間島安芸守自身が両郷に対して乱妨狼藉に及んでいるので、間島を処罰し下地を返すよう守護に命じてほしいと北朝に訴えた。
  • 1356年(南朝:正平11)(北朝:文和5)
  • 1357年(南朝:正平12)(北朝:延文2)
    • 9月28日 - 北朝の後光厳天皇が、野間田その他の醍醐寺蓮蔵院・報恩院領を安堵した。
  • 1359年(南朝:正平14)(北朝:延文4)
    • 10月11日 - 興福寺別当は西小屋荘乱妨についての雑掌の訴えを安威新左衛門入道に伝えて沙汰を依頼した。
    • 12月23日 - 将軍足利義詮が東寺より尼崎へ下向し、これに従う細川勢・赤松勢ら7万余騎は南朝方の軍勢に対して大島・渡辺・尼崎・鳴尾・西宮に陣をはった。将軍は翌年5月まで大覚寺に在陣した。
  • 1360年(南朝:正平15)(北朝:延文5)
  • 1361年(南朝:正平16)(北朝:康安元)
    • 7月24日 - 難波浦で津浪が起こり、数百人の海人が溺死した。
    • 9月 - 楠木正儀大覚寺に禁制を下した。
  • 1362年(南朝:正平17)(北朝:貞治元・康安2)
  • 1365年(南朝:正平20)(北朝:貞治4)
    • 6月11日 - 京都八坂神社の鳥居用の大木が尼崎から四条河原に着き、神人ら200余人が社まで引いた。
  • 1366年(南朝:正平21)(北朝:貞治5)
  • 1368年(南朝:正平23)(北朝:応安元)
    • 7月8日 - 北朝の後光厳天皇が、野間田その他の醍醐寺蓮蔵院・報恩院領を安堵した。
    • 12月11日 - 摂津守護赤松光範は、南禅寺造営材木を尼崎から運ぶ船と筏の関料免除などを河上諸関に命じた。
  • 1369年(南朝:正平24)(北朝:応安2)
    • 2月22日 - 管領細川頼之は、西国から運上される南禅寺造営用材の摂津諸関の関料免除などを守護赤松光範に命じた。
    • 3月2日 - 赤松範顕は、守護の命をうけて南禅寺造営用材の関料免除などを河上の諸関に命令した。
    • 10月 - 源雅宗は大島荘など相伝の私領を、近来知行の実がなく訴訟による解決の望みもないとして久我家〔こがけ〕に寄進した。
  • 1373年(南朝:文中2)(北朝:応安6)
    • 3月28日 - 南朝勢を攻撃するため細川氏春が淡路を出国して尼崎に着岸した。
  • 1375年(南朝:天授元)(北朝:永和元)
    • 6月13日 - 管領細川頼之は、兵庫以下の諸関が東福寺の造営料木・年貢の関料免除に異議を唱えたのに対し、関料などの免除を厳重に命じた。
    • 7月3日 - 神崎関の者らが南禅寺造営材木の通過を認めないので関料免除などの御教書を求める旨の尼崎からの注進状が、南禅寺に届いた。
  • 1379年(南朝:天授5)(北朝:康暦元)
    • 8月27日 - 大覚寺富島荘下司職を渡辺左近将監が押領したのに対し、将軍義満が停止を命じた。
  • 1384年(南朝:元中元)(北朝:至徳元)
    • 9月2日 - 管領斯波義将は、尼崎から運送する東福寺山門造営材木について関料免除などを河上諸関に命じた。
    • 10月29日 - 幕府の斯波義重は高野山安養院雑掌の訴えによって、田能村大和入道蔵周による同院領昆陽寺荘西方内の笠池平次郎名の押妨停止を細川頼元に命じた。
  • 1387年(南朝:元中4)(北朝:嘉慶元)
    • 8月30日 - 管領斯波義将は、兵庫島での札狩りを避けた西海船に限って神崎関における興福寺の札狩りを認めた。
  • 1390年(南朝:元中7)(北朝:明徳元)
    • 10月9日 - 広徳寺開祖の言外宗忠が没した。
  • 1391年(南朝:元中8)(北朝:明徳2)
  • 1392年(南朝:元中9)(北朝:明徳3)
    • 6月19日 - 管領細川頼元は、大山崎神人の荏胡麻運送に対する兵庫島神崎など諸関の関料免除その他を関務をとる者らに触れるよう、内藤禅正に命じた。

10年紀と各年

1300年代1300130113021303130413051306130713081309
1310年代1310131113121313131413151316131713181319
1320年代1320132113221323132413251326132713281329
1330年代1330133113321333133413351336133713381339
1340年代1340134113421343134413451346134713481349
1350年代1350135113521353135413551356135713581359
1360年代1360136113621363136413651366136713681369
1370年代1370137113721373137413751376137713781379
1380年代1380138113821383138413851386138713881389
1390年代1390139113921393139413951396139713981399
1400年代1400140114021403140414051406140714081409

  事項が少ないため、各年、10年紀はこのページへのリダイレクトです。

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