年表:
世紀: 17世紀 - 18世紀 - 19世紀
10年紀: 1680年代 1690年代 1700年代 - 1710年代 - 1720年代 1730年代 1740年代
各年: 1710年 1711年 1712年 1713年 1714年 1715年 1716年 1717年 1718年 1719年
1710年から1719年までの10年間を指す。
1710年代の年表
- 1710年(宝永7)
- 1711年(正徳元・宝永8)
- 2月11日 - 青山幸侶は信濃国飯山へ所替えを命じられた。
- 2月11日 - 譜代大名松平忠喬は掛川より尼崎へ4万石の大名として所替えを命じられた。
- 3月 - 尼崎城下の町人の人口は1万6,391人、家数は1,568軒であった。
- 4月25日 - 尼崎城下の岸田屋伊右衛門方において、松平氏入部にともない公収される旧尼崎領8,000石の村々が幕府代官の手代に引き渡された。
- 6月18日 - 新城主松平忠喬が尼崎に入部した。
- 9月14日 - 尼崎藩は江戸へ向かう朝鮮信使一行を兵庫津で接待し、翌日船数百艘で大坂まで護衛した。
- 1712年(正徳2)
- 2月 - 尼崎藩は、生活全般にわたる統制規定など50か条の条目を触れた。以後藩主の代替りごとに同文の条目を触れた。
- 7月3日 - 洪水のため西昆陽・常松・常吉村支配の武庫川堤が切れ、時友村より南、尼崎城下まで被害が出た。
- 7月24日 - 尼崎藩は領分全域の村々から日に3,500人の人足を出させて武庫川西昆陽村・常吉村堤の普請を開始した。
- この年 - 野間井・生島井・武庫井の各井組は洪水で埋まった井溝の掘り返しにあたり、それぞれの溝幅を確定し今後変更を許さないことを定め取り交わした。
- 1713年(正徳3)
- この年 - 尼崎藩は兵庫津に御城米改め番所を設け、同心2人・足軽3人を定詰とした。
- 1714年(正徳4)
- 11月29日 - 京都町奉行所が、酒井・田能両村の境争論にさいして検使に領境の杭を打たせ、裁許を下した。
- 1716年(享保元・正徳6)
- 6月13日 - 尼崎出屋敷の庄左衛門と妹さつは、親類の西宮商人がもつ房州館山浦の店へ商売かせぎに下ることを尼崎藩から認められた。
- 9月 - 近松門左衛門が久々知広済寺の開山講中に加わった。
- 11月23日 - 幕府の私領巡見使が尼崎藩領などを巡見した。
- この年 - 大坂二十四組江戸積問屋仲間が結成された。
- このころ - 尼崎城下の町人の人口は1万6,439人、家数は1,641軒であった。
- このころ - 西宮町の人口は7,000人余りであった。
- 1716~36年(享保年間)
- 1718年(享保3)
- 6月12日 - 正徳2年の武庫川洪水後に新築された常吉領堤からの漏水排水をめぐる武庫・水堂両井組の争論に裁許が下った。
- 1719年(享保4)