年表:
世紀: 17世紀 - 18世紀 - 19世紀
10年紀: 1730年代 1740年代 1750年代 - 1760年代 - 1770年代 1780年代 1790年代
各年: 1760年 1761年 1762年 1763年 1764年 1765年 1766年 1767年 1768年 1769年
1760年から1769年までの10年間を指す。
1760年代の年表
- 1760年(宝暦10)
- 6月 - 尼崎の生魚問屋5軒は、中在家町の瓜屋・貝屋の2軒が新たに生魚問屋を始めて生魚船との取引きを乱すのを禁じてほしいと尼崎藩に願った。
- 11月25日 - 幕府の私領巡見使が尼崎藩領などを巡見した。
- この年 - 道意新田が新田地先の開発を尼崎藩に願い出て許された。
- 1762年(宝暦12)
- 2月21日 - 尼崎藩は岡村銀札についての不安・浮説の発生に対して触れを出し、両銀札の1日宛の正銀引替え額を定めた。
- 4月 - 武庫川尻の漁場をめぐる尼崎浦と鳴尾浦との境界争論について内済絵図が作成された(尼崎浦・鳴尾浦漁場境界争論)。
- 7月 - 野間・生島両井組は、西昆陽村字松原における井溝堤切り取り争論について尼崎藩の仲裁で証文を取りかわした。
- 9月22日 - 尼崎浦は、朝鮮通信使来朝にさいして浦役を勤めているので信使送迎のため淀宿人馬賃金の割銀賦課を免除してほしい、と大坂町奉行所へ事前に願い出た。
- 1764年(明和元・宝暦14)
- 1月14日 - 岡村十左衛門は、岡村銀札のにせ札流通に対して、尼崎など5か所の引替所を休ませて調査すると藩に届けた。
- 1月19日 - 江戸へ向かう朝鮮信使の一行を、尼崎藩が兵庫津で接待した。
- 5月 - 尼崎藩は、宝暦3年発行以外の岡村銀札の通用停止を命じた。
- 10月20日 - 浜田・西難波両村から争論中の浜田川へ大勢が出て騒動になり浜田村は西難波村の百姓2人を捕えた。
- 1765年(明和2)
- この年 - 碇屋など5軒の魚問屋仲間が、藩御用魚の勤め方、夜市の火の用心をはじめ市場・売子の管理など10か条について申合せをした。
- 1766年(明和3)
- 3月7日 - 幕府が近畿・西国の在々絞り油稼ぎを禁止し、在々手絞り油を大坂へ積登せるべきことを布達した。
- 5月 - 武庫郡55か村の農民が、在々絞り油屋・干鰯屋への菜種販売の自由を大坂町奉行所に訴願した(菜種訴願)。
- 12月7日 - 尼崎藩は浜田川水論について、西難波村を訴えた浜田村の村役人8人全員が牢死等で亡くなったので、裁決は下さないと申し渡した。
- 12月24日 - 尼崎藩主松平忠名が没した。
- 1767年(明和4)
- 1768年(明和5)
- 3月27日 - 尼崎藩は、生島井組内で生島4か村が常松村へ毎年渡している米は井親としての井料ではなく急水知らせ料であると裁定し、5か村は請書を提出した(生島井組の井親争論)。
- 5月27日 - 洪水のため池尻村支配の武庫川堤が切れ、尼崎市域の村々に被害が出た。
- 6月14日 - 旱ばつにさいして、大井西川筋の井子東長洲・中長洲・金楽寺3か村の百姓約300人が出て潮江村地内の堰を残らず切り落とした。
- 12月23日 - 尼崎藩が、築地町の古地も惣町勘定のほとんどを他の城下7町なみに負担すべきと裁決した。
- 1769年(明和6)
- 2月13日 - 幕府は、尼崎藩に藩領のうち灘の海岸沿い村々など1万4,000石余を公収し、播磨国多可・宍粟・赤穂3郡のうちに替地1万9,000石余を与えることを申し渡した(明和6年の上知)。
- 2月30日 - 尼崎藩は、西宮町の公収にともなう西宮銀札の正銀引替えを3月4日から再開すると触れた。
- 4月6日 - 尼崎藩は、上知を命じられた22か村を幕府に引き渡した。兵庫津・西宮町は6月21日に引き渡した。
- 4月9日 - 尼崎藩は播州替え地村々のうち代官稲垣藤左衛門預り分の受取りを完了、続いて11日には生野代官平岡彦兵衛・三日月藩森俊春預り分村々の受取りを完了した(尼崎藩の飛び地領)。
- 6月21日 - 尼崎藩は、上知を命じられた兵庫津と西宮町は幕府に引き渡した。
- この年 - 西宮町の人口9,778人。