1947年

出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
世紀:19世紀 - 20世紀 - 21世紀
年表 10年紀:1920年代 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代
周辺の年:1944年 1945年 1946年 1947年 1948年 1949年 1950年

昭和22年

  • 1月28日 - 2.1ストを前に、尼崎地方労働者会議準備会主催による生活権獲得内閣打倒労働者大会が難波国民学校校庭で開かれ、18労組約15,000人の労働者が参集した。
  • 3月1日 - 尼崎市園田村が合併した(園田村の合併)。
  • 3月27日 - 尼崎工業会総同盟尼崎地方協議会が提携して尼崎産業復興会議を結成し、生産危機突破運動、経営民主化、勤労者生活確保などを基本とする規約を制定した。
  • 3月31日 - 日亜製鋼本社工場従業員組合が最低賃金制導入などを求めて、工場生産を自主管理する生産管理闘争を開始した。
  • 4月1日 - 学制改革による新制中学校として、市立城内中学校・竹谷中学校(1949年昭和中学校と改称)・小田中学校(1949年小田南中学校と改称)・大庄中学校(1949年大庄東中学校と改称、2006年大庄西中学校と統合され大庄中学校に復称)・立花中学校・武庫中学校・園田中学校が設置された。
  • 4月5日 - 公選第1回目となる尼崎市長選挙が行なわれ、六島誠之助が当選した。
  • 4月6日 - 公選初代の尼崎市長六島誠之助が就任した。
  • 4月8日
    • 私立園田学園中学校(現南塚口町1丁目)に開校した。
    • 尼崎勤労署を廃止して尼崎公共職業安定所が開設され、日雇勤労署は尼崎公共労働安定所と改称された。
  • 4月20日 - 消防団令公布により警防団が廃止され、新たに中央・小田・大庄・立花・武庫・園田の6消防団が組織された。
  • 4月29日 - 日亜製鋼は、同本社工場従業員組合との間に、最低賃金制導入など組合側要求を全面的に承認する協定書を締結した。これにより、3月31日に始まった同組合による生産管理闘争が終結した。
  • 4月30日 - 地方自治法のもと、婦人参政権を認めた最初の尼崎市議会議員選挙が実施された。
  • 5月3日 - 検察庁法施行により尼崎区検察庁が設置された。
  • 5月19日 - 「尼崎市役所支所設置条例」が公布された。これにより、小田・大庄・立花・武庫・園田の各出張所が支所となった。
  • 5月22日 - ナニワ工機が設立された。
  • 5月 - 北城内の兵庫県立尼崎懐仁病院兵庫県立尼崎病院と改称した。
  • 6月12日 - 昭和天皇が三菱化成尼崎工場などを視察し、尼崎市長は市勢等を奏上した(天皇行幸)。
  • 6月22日 - 経済監視官阪神班は、三和・神田など6か所の自由市場でヤミの主食1,600キロを押収し、20人を検挙した。
  • 8月7日 - 学校体育と社会人スポーツの連携・振興を意図する尼崎市の呼びかけにより、各競技団体などが加盟する尼崎市体育協会が設立された。
  • 8月26日 - 全日本産業別労働組合会議尼崎地区会議が結成された。
  • 9月 - 尼崎労働基準監督署が設置された。
  • 10月4日 - 1943年設立の尼崎史談会を発展的に解消し、新たに尼崎文化協会が設立された。
  • 10月10日 - 武田化学薬品が和光純薬と改称した。
  • 10月 - 尼崎市社会教育委員が初めて任命された。
  • 12月6日 - 尼崎市連合育友会が結成された。
  • 12月17日 - 日本自由党尼崎支部が結成された。
  • 12月26日 - 産別会議系組合員らが扶桑金属鋼管製造所のスクラップを隠退蔵物資として摘発するために押しかけ、翌12月27日には多数の組合員が検挙された。
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