1955年

出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
世紀:19世紀 - 20世紀 - 21世紀
年表 10年紀:1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代
周辺の年:1952年 1953年 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年

昭和30年

  • 1月6日 - 尼崎市議会特別委員会は市民運動場の一部を米軍に貸与することを承認した。
  • 2月 - 尼崎市が緊急失業対策事業都市に指定された。
  • 3月 - 1953年の台風被害からの県営復旧工事として六樋に対して実施された、河床に集水用の管渠を埋設する工事が完成した。
  • 4月1日
  • 4月5日 - 倒産した尼崎製鋼所が旧従業員約1,800人のうち400人余りで再発足することとなり、この日まず200人の従業員により9か月ぶりに操業を再開した。
  • 4月16日 - 利昌工業で就業規則改正要求を契機に労働組合が結成され、数か月に及ぶ長期争議が始まった(利昌工業争議)。
  • 4月30日 - 尼崎市議会議員選挙が実施された。
  • 4月 - 兵庫県立尼崎高等学校野球部が第27回選抜高等学校野球大会(甲子園)に出場し、1回戦で鹿児島市立鹿児島商業高等学校を4対1のスコアで、2回戦で岩手県立一関第一高等学校を5対0のスコアで、準々決勝で福井県立若狭高等学校を2対0のスコアで下し、準決勝で私立浪華商業高等学校に1対0のスコアで敗れた。
  • 7月1日 - 尼崎公共職業安定所長洲労働出張所が業務を開始した。
  • 7月5日 - 冷間圧延機導入のための会社側合理化提案(6月)以来時限ストが続いていた大同鋼板では、全従業員に解雇を通告し賃金引下げを条件とする一部再雇用案を組合に提示したことから争議が本格化した。翌月4日労組は全員投票の結果380人解雇の会社案受諾を決定し、8月11日に操業を再開した(大同鋼板争議)。
  • 7月20日 - 尼崎商店連盟が結成された。
  • 8月1日 - 白石工業が丸島町の工場の操業を開始した。
  • 8月26日 - 森永ドライミルク中毒患者が尼崎市内で合計51人に達した。
  • 10月1日 - この日付けで実施された国勢調査の結果、尼崎市の人口が335,507人となり、昭和戦前期の国勢調査による市域人口最高水準(1940年、274,516人)を越えた。
  • 11月9日 - 尼崎市の委託で兵庫県立尼崎病院が無料開眼手術を始めた。
  • 11月21日 - 尼崎市議会総務委員会は神戸大学工学部誘致を断念し、その予定地に公団住宅1,500戸(西武庫団地)を建設する方針に変更した(神戸大学工学部誘致問題)。
  • 12月14日 - 昭和通2丁目の日本木管跡地に、1,500人収容のホールや展示室・会議室・結婚式場などを備える尼崎市文化会館が開館し、同月16日まで記念行事が催された。
  • 12月27日 - 尼崎市は、火災共済等の事業を行なう尼崎市民共済生活協同組合を設立した。
  • この年 - 神崎(戸ノ内)と初島の両新地(特飲街)が建設され、難波新町や出屋敷付近など市内中心部の業者の多くが移転した。
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