2.1スト

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出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1947年(昭和22)2月1日、全官公庁共同闘争委員会(共闘)を中心として計画されたゼネラル・ストライキ。1946年の産別10月闘争後、民間に比べて相対的に低賃金におさえられた官公庁労組は、11月以降、越年資金の支給、最低賃金制の確立を要求して争議に入り、同16日には共闘を結成した。12月5日尼崎では、産別系の市教員組合を中心に社共両党などの支援も得て、全県下にさきがけてスト態勢確立大会を開き、「総罷業実行計画案」を確認した。この間、中央共闘は政府と交渉し、度々危機突破労働者大会を開催するとともに、12月17日には「吉田内閣打倒国民大会」を開催した。同日尼崎でも、総同盟尼崎地方協議会と産別系組合の共催で大会が開かれた。

  翌1947年吉田首相の年頭の辞における「不逞の輩」発言はこれらの動きに一層拍車をかけ、闘争は経済闘争から政治闘争の性格を帯び始めた。1月15日、総同盟・日労会議系も参加して全国労働組合共同闘争委員会(全国・400万人)が結成され、18日には吉田内閣打倒の政治的要求を掲げてゼネスト宣言を発した。同日兵庫県でも、神戸でスト宣言大会が開かれた。こうした中、尼崎では労働組合の戦線統一の動きが起こり、尼崎地方労働者会議準備会がつくられた。同28日準備会の主催で、難波国民学校校庭で開かれた「生活権獲得内閣打倒労働者大会」は、それを一段と加速するものであった。しかし、この頃からゼネストを「占領目的違反」とするGHQの干渉が強まり、総同盟系の組合が離脱するなか、1月31日午後2時半マッカーサー声明により、ゼネストは禁止された。

執筆者: 福永文夫

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