尼崎地域歴史年表
約6千年前の縄文海進により、伊丹段丘の砂礫層上に粘土層が堆積。その後の海退と、大阪湾の沿岸潮流や猪名川・武庫川両水系が運ぶ土砂の堆積により、沖積層からなる尼崎平野が伊丹台地の南に形成される。
原始 ・ 古代 |
縄文時代 | 現尼崎市域の多くは未だ海であった。現在まで市域に縄文時代における定住を示す明確な遺構は確認されていない。 |
弥生時代 | 海退と沖積層の堆積により陸地化がすすむ。上ノ島・田能・武庫庄など、市域北半部の各所に集落が形成される。 | |
古墳時代 | 池田山古墳・水堂古墳をはじめ、市域北半部に数多くの古墳が築かれた。 | |
7世紀 | この頃、猪名寺の地に法隆寺式伽藍配置の寺院が造営された(猪名寺廃寺)。 | |
710 (和銅3) |
3・10 平城京遷都。 | |
756 (天平勝宝8) |
この年、猪名の地が東大寺に勅施入される。これにより猪名荘が成立した。 | |
794 (延暦13) |
10・22 平安京遷都。 | |
998 (長徳4) |
この頃、東大寺領猪名荘の荘田は八五町余りであり、ほかに野地一〇〇町、浜二五〇町を有していたとされる。 | |
1084 (応徳元) |
8・10 鴨社領長洲御厨が成立。この土地をめぐって、鴨社と東大寺の争いが14世紀前半頃まで続く(東大寺・鴨社相論)。 | |
1185 (文治元) |
11 兄・源頼朝と不和となった義経が、再起を期して大物から船出するも嵐のため難船、和泉浦へ逃亡した。 |
中世 | 1192 (建久3) |
7・12 源頼朝、征夷大将軍となる。 |
1287 (弘安10) |
1・ 時宗開祖として諸国を遊行しながら布教した一遍上人が、尼崎を訪れ勧進を行なった。 | |
1336〜 1392 (南北朝時代) |
交通の要衝である尼崎は、しばしば戦乱の舞台となった。この前後、尼崎合戦・坂部合戦・神崎合戦・浄光寺合戦などがあった。 | |
1338 (延元3・暦応元) |
8・11 足利尊氏、征夷大将軍となる。 この年、石清水八幡宮再建に尼崎番匠(棟梁大工)が加わる。尼崎番匠は神崎番匠とともに各地の社寺を造営。 |
|
1351 (正平6・観応2) |
2・26 足利尊氏の有力家臣、高師直・師泰兄弟が、武庫川の東で足利直義方の上杉能憲らに襲われ殺害された。 | |
1420 (応永27) |
6・27 朝鮮使節の宋希mが尼崎に宿泊。付近の農村の三毛作について記録した。 | |
1467 (応仁元) |
5・応仁の乱が始まる。 8・7 大内政弘勢が尼崎町を焼き討ちし女子供まで殺害。 |
|
1487 (長享元) |
この年、大徳寺如意庵領鳴尾田から「富松城縄竹代」を出銭した記録があり、この頃までに富松城が築かれたと考えられる。 | |
1531 (享禄4) |
6・大物くずれ。細川高国は細川晴元勢に敗れて尼崎へ逃れ捕えられ、8日に大物の広徳寺で切腹させられた。 | |
1568 (永禄11) |
この年の夏、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが尼崎を訪れ、キリスト教を布教した。 | |
1569 (永禄12) |
3・6 尼崎衆が信長の軍勢に抵抗したため、長遠寺・如来院を除いて尼崎町が焼き払われた。 | |
1578 (天正6) |
10・荒木村重、信長にそむく。翌天正7年末に有岡城(伊丹)落城、村重妻子・配下六百数十人を七松で処刑 | |
1584 (天正12) |
この頃、建部高光が尼崎郡代として尼崎城に在勤した。 | |
1588 (天正16) |
閏5・14 秀吉配下の武将・佐々成政が任地肥後国の国衆一揆の責めを負って、尼崎で切腹させられた。 | |
1592 (天正20) |
5・ 三平井組・大井組水論で乱闘があり、双方庄屋斬罪。こののちも猪名川・武庫川両水系でしばしば水論。 |
近世 | 1603 (慶長8) |
2・12 徳川家康、征夷大将軍となる。 |
1617 (元和3) |
この年、戸田氏鉄が尼崎藩5万石の大名となり、幕府より中世尼崎城に替わる新たな城の築城を命じられる。築城とともに、城下町建設も始まった。 | |
1635 (寛永12) |
7・28 戸田氏鉄が美濃国大垣へ所替えを命じられ、替わって青山幸成が遠江国掛川より尼崎へ所替えとなった。 | |
1640 (寛永17) |
この年、国学者・契沖が尼崎藩士下川元全の子として尼崎城下に生まれた。 | |
1643 (寛永20) |
6・6 尼崎藩が朝鮮通信使を兵庫津で接待した(記録されている、最初の尼崎藩による通信使接待)。 | |
1653 (承応2) |
5・15 大坂玉造の鍵屋九郎兵衛らが葭島の太布脇開発を尼崎藩に出願(のちの道意新田)。この頃から海岸部の新田開発が盛んに行なわれる。 | |
1664 (寛文4) |
この年、尼崎城の南に建設中であった築地町が完成した。 | |
1688〜 1703 (元禄年間) |
この頃、中在家町戎の浜の魚市場には、京都辺りに魚を運ぶ者も含めて約千人の魚商人が出入りしたと言われる。 | |
1705 (宝永2) |
5・京都など畿内から伊勢に集団で参宮するおかげ参りが流行。大坂、尼崎、西宮、兵庫などからも人々が参宮。 | |
1711 (宝永8) |
2・11 青山幸侶が信濃国飯山への所替えを命じられ、替わって松平忠喬が遠江国掛川より4万石の大名として尼崎へ所替えとなった。 | |
1716 (享保元) |
9・ 近松門左衛門が久々知広済寺開山講中に加わる。 この頃、尼崎城下の町人人口は1万6,439人、家数は1,641軒であったと記録されている。 |
|
1726 (享保11) |
7・19 尼崎藩は、幕府より武庫川普請および、有馬郡・武庫郡・川辺郡の山々の普請を担当する土砂留大名を命じられた。 | |
1729 (享保14) |
4・19 中国商人から将軍に献上される象を連れた一行が、尼崎城下にほど近い別所村に宿泊した。 | |
1732 (享保17) |
この年、享保の大飢饉。尼崎藩領においても稲に虫が付く被害が発生し、収穫量が例年より大幅に減少した。 | |
1738 (元文3) |
7 次屋村・浜村・水堂村など、旗本青山幸覃知行所の農民が、御用銀などの強引な徴収に抗議して妻子ともども村から逃散した。 | |
1764 (明和元) |
10・20 浜田・西難波両村民が浜田川の水利をめぐって騒動を起こし、浜田の村役人が牢死する結果となった。 | |
1769 (明和6) |
2・13 幕府は尼崎藩領のうち西宮町・兵庫津・灘目などを直領とし、播磨国内に替え地を与えると申し渡した。 | |
1781 (天明元) |
7・4 武庫川原で尼崎藩の砲術訓練が行なわれ、鉄砲と花火の見物に14,5万人の人々が集まった。 | |
1797 (寛政9) |
10・27 武庫・川辺・豊島3郡の村々は、菜種販売の自由と在々絞り油屋の油小売解禁を求めて、大坂町奉行所に訴え出た。 | |
1805 (文化2) |
10・2 幕府測量方伊能忠敬一行が、神崎村から測量を開始し尼崎城下に入った。文化5年にも神崎から伊丹町にかけて測量した。 | |
1826 (文政9) |
ドイツ人医学者・シーボルトがオランダ商館長の江戸参府に随行し、2月と5月に陸路尼崎を通過した。 | |
1828 (文政11) |
9・3 尼崎藩は向こう3年間、家中の俸禄を大幅に削減する「上げ米」を命じた。この後も藩財政改革に取り組むが、財政窮迫が続く。 10・ 幕府は播磨国の尼崎藩領の一部を直領とし、替え地を摂津国内に与えると申し渡した。 |
|
1831 (天保2) |
6・前年来、畿内近国各所でおかげ踊りが流行。尼崎城下や現尼崎市域の村々でも、おかげ踊りが発生した。 | |
1837 (天保8) |
2・19 大塩平八郎の乱。尼崎藩は城下の警護を固め、さらに藩士を大坂守衛に派遣した。 | |
1854 (嘉永7) |
9・18 プチャーチン率いるロシア軍艦が尼崎沖に停泊し、月末まで湾口・沿岸を測量調査した。これを契機に大阪湾の海防という問題が浮上した。 | |
1864 (元治元) |
7・20 禁門の変で敗走した長州藩の山本文之助が尼崎で捕まり自決。翌年から民衆が墓に参詣(残念さん信仰)。 | |
1867 (慶応3) |
10・14 将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し出た。 |
近代 | 1869 (明治2) |
6・20 尼崎藩の版籍奉還。藩主は藩知事に任命された。 12・ 川辺郡の政府直轄領において農民一揆が発生した。 |
1871 (明治4) |
7・14 維新政府が廃藩置県を命令。これにより7月15日、尼崎藩は尼崎県となった。 | |
1872 (明治5) |
2・10 尼崎県の兵庫県への移管が完了し、現尼崎市域全域が兵庫県の管轄となった。 | |
1873 (明治6) |
2・ 常松小学開校(学制による市内初の学校)。こののち、尼崎町や村々に小学校が設置されていった。 | |
1874 (明治7) |
5・11 官設鉄道の大阪・神戸間が開業。6月1日には神崎ステーション開設(現尼崎駅)。 | |
1889 (明治22) |
2・11 大日本帝国憲法公布、翌明治23年施行。 4・1 町村制施行。現尼崎市域に尼崎町ほか5村設置。 6・19 尼崎紡績の創設が認可された。 |
|
1891 (明治24) |
この年、尼崎と伊丹を結ぶ川辺馬車鉄道開通。摂津鉄道、阪鶴鉄道を経て官設鉄道福知山線・同尼崎支線となる。 | |
1894 (明治27) |
8・1 日清戦争開戦。 | |
1904 (明治37) |
2・10 日露戦争開戦。 | |
1905 (明治38) |
4・12 阪神電鉄開業。翌明治39年5月1日、尼崎最初のストとされる阪神電鉄争議が発生。 | |
1906 (明治39) |
10・1 旧城郭内の伊丹警察署尼崎分署が、尼崎警察署に昇格した。 | |
1907 (明治40) |
9・8 旭硝子創立。本社が中在家町に置かれる。尼崎臨海部の重化学工業地帯化が本格化する先駆けとなった。 | |
1908 (明治41) |
10・5 阪神電鉄が、尼崎町・大庄村など沿線町村への電灯・電力供給事業を開始した。 | |
1916 (大正5) |
4・1 尼崎町に東難波・西難波を加えて尼崎市が発足。 8・11 市長臨時代理者の櫻井忠剛が、初代市長に就任。 |
|
1918 (大正7) |
この年、米騒動。8月には尼崎市と小田村で騒擾発生。 10・1 神崎水源地完成。尼崎市水道の正式給水開始。 |
|
1920 (大正9) |
1・7 市立通俗図書館が宮町に開館した。 7・16 阪神急行電鉄(現阪急)神戸線・伊丹支線開通。 |
|
1922 (大正11) |
4・9 旧城郭内に市役所新庁舎が完成。岡山県所在の工場事務所を購入・移築した木造建築であった。 | |
1923 (大正12) |
4・9 尼崎市立中学校開校式。昭和5年に県立となる。 6・28 竹谷新田耕地整理組合設立(尼崎初の耕地整理組合)。 |
|
1924 (大正13) |
12・22 都市計画兵庫地方委員会が尼崎市ほか5村の区域(現尼崎市域)を尼崎都市計画区域と決定。 | |
1925 (大正14) |
3・東浜に日本電力尼崎火力発電所完成。こののち、尼崎臨海部には大規模火力発電所の設置が続いた。 | |
1926 (大正15・昭和元) |
12・25 阪神国道(現国道2号)開通。 | |
1931 (昭和6) |
9・18 満州事変勃発。 | |
1933 (昭和8) |
7・15 失業救済事業により兵庫県が建設した産業道路(県道尼崎・池田線)が完成した。 9・10 大日本国防婦人会尼崎支部発会式。 |
|
1934 (昭和9) |
7・20 東海道線の立花駅が開設された。 9・21 室戸台風襲来。 |
|
1936 (昭和11) |
4・1 尼崎市と小田村が解消合併。6月3日、有吉實が新発足した尼崎市の市長に就任。 | |
1937 (昭和12) |
7・7 日中全面戦争開戦。 11・村野藤吾設計の大庄村役場新庁舎落成。 |
|
1940 (昭和15) |
12・8 尼崎商工会議所の創立総会開催。同17日、設立が認可された。 | |
1941 (昭和16) |
4・1 国民学校令実施。各小学校が国民学校と改称。 12・8 太平洋戦争開戦。 |
|
1942 (昭和17) |
2・11 尼崎市と大庄村・立花村・武庫村が合併。 | |
1943 (昭和18) |
12・政府は都市疎開実施要綱を策定。尼崎市も対象都市とされ、防火帯設置のための家屋疎開が開始された。 | |
1944 (昭和19) |
学童疎開開始。市内初等科児童の集団疎開先は川辺郡・多紀郡・氷上郡・多可郡内の学校・寺院などであった。 | |
1945 (昭和20) |
この年3月以降、尼崎市はたび重なる空襲被害を受けた。 8・15 敗戦。 |
現代 | 1946 (昭和21) |
4・16 日本労働組合総同盟尼崎地方協議会結成。昭和22年には産別尼崎地区会議、24年には尼崎全労協結成。 11・3 日本国憲法公布、翌昭和22年施行。 |
1947 (昭和22) |
3・1 尼崎市と園田村が合併。 4・5 初代公選市長として六島誠之助が当選。 |
|
1948 (昭和23) |
この年、阪神朝鮮人学校事件。尼崎市では翌昭和24年以降、市長の責任において朝鮮人分校を設置。 | |
1950 (昭和25) |
9・3 ジェーン台風襲来。 この頃、レッド・パージ実施。尼崎市警察問題紛糾。 |
|
1952 (昭和27) |
9・14 尼崎競走場で第1回市営ボートレース開催。 10・16 日本労働組合総評議会尼崎地方評議会結成。 |
|
1954 (昭和29) |
4・20 防潮堤閘門の開通式が行なわれた。 | |
1959 (昭和34) |
4・7 尼崎市とドイツ・アウクスブルク市の姉妹都市提携調印記念式典が行なわれた。 | |
1960 (昭和35) |
この年、安保闘争。 6・4 安保阻止統一行動総決起大会を大物公園で開催。 |
|
1962 (昭和37) |
10・8 東七松町に村野藤吾設計の市役所新庁舎落成。旧庁舎(旧尼崎尋常高等小校舎)から移転し15日開庁。 | |
1963 (昭和38) |
7・15 名神高速道路尾浜・栗東(滋賀県)間が日本初の高速道路として開通。翌昭和39年、西宮・尾浜間開通。 この年、兵庫県下の第二阪神国道(国道43号)開通。 |
|
1965 (昭和40) |
9・28 田能の工業用水道配水場工事現場で大量の弥生式土器発見、翌年9月にかけて発掘調査が行なわれた。昭和44年に国史跡に指定され、45年に市立田能資料館が開館。 | |
1969 (昭和44) |
この年、兵庫県と尼崎市は市内62社(69工場)、3企業団地(55工場)との間に第一次公害防止協定締結。 | |
1970 (昭和45) |
10・1 市人口が55万人を越え最高となる(国勢調査)。 12・1 尼崎市は国の公害病救済地域に指定された。 |
|
1972 (昭和47) |
8・3 43号線公害対策尼崎連合会、阪神高速道路建設工事に反対して武庫川町の工事現場で座り込みを開始。 | |
1973 (昭和48) |
この年、石油危機。11月には、尼崎市内のスーパーなどにトイレットペーパーを求めて主婦らが殺到した。 | |
1978 (昭和53) |
7・7 塚口南再開発事業により阪急塚口駅の南側に商業施設・住宅などからなる「さんさんタウン」が開業した。 | |
1981 (昭和56) |
6・27 阪神高速道路大阪西宮線開通。 | |
1983 (昭和58) |
2・2 尼崎市と中国鞍山市との友好都市提携調印式が行なわれた。 | |
1984 (昭和59) |
1・31 国鉄福知山線の支線である尼崎港線(塚口・尼崎港駅間)の貨物取扱が廃止され、同線は廃線となった。 | |
1985 (昭和60) |
8・尼の生揚醤油の生産が約40年ぶりに復活した。 9・27 グンゼ塚口工場跡に商業施設「つかしん」開店。 |
|
1987 (昭和62) |
9・28 神戸製鋼尼崎製鉄所の第一高炉休止。これにより元尼崎製鋼・尼崎製鉄の製鉄施設稼働が完全に終了した。 | |
1990 (平成2) |
3・18 神田北通のスーパー長崎屋尼崎店で大火災発生。 4・ 4月1日付の市推計人口が50万人を下回る。 |
|
1992 (平成4) |
9・30 市議会議員の不正出張が発覚し、出張旅費問題として紛糾。翌平成5年5月25日、市議会自主解散。 | |
1993 (平成5) |
9・4 連合尼崎結成。これにともない総評尼崎地方評議会解散。翌平成6年5月18日には尼崎地区同盟も解散。 | |
1994 (平成6) |
4・2 阪神高速湾岸線開通。 | |
1995 (平成7) |
1・17 阪神・淡路大震災発生。市は4月27日に震災復興基本計画を策定、6月30日には震災復興計画を策定。 | |
1997 (平成9) |
3・8 JR東西線(尼崎・京橋間)が開通。尼崎駅は全新快速・快速の停車駅となった。 | |
1999 (平成11) |
3・19 震災被災者の応急仮設住宅が完全に解消された。 | |
2005 (平成17) |
4・25 JR福知山線の塚口・尼崎駅間で脱線事故発生。死者107人の大惨事となった。 この年、クボタ旧神崎工場が石綿(アスベスト)による健康被害を発表し、石綿被害が全国的な社会問題となった。 |
|
2006 (平成18) |
5・ 「尼崎21世紀の森構想」の一環として兵庫県が整備した「尼崎スポーツの森」(扇町)開設。 この年、尼崎市は市制90周年を迎えた。 |