序説/尼崎の歴史の舞台/ この節を理解するために(岩城卓二)




中世の港町大物・尼崎から近世尼崎城下、近代尼崎町が展開した地域(上が北)
 中央上部が阪神尼崎駅。国道43号が旧来の市街を横断しています。(昭和48年撮影)

地形と歴史

 兵庫県南東部に位置する尼崎市。 南は大阪湾に面し、東は猪名川、西は武庫川に囲まれた市域の大部分は、大阪湾の沿岸流や武庫川・猪名川の両水系が運ぶ土砂が堆積〔たいせき〕してできた平野です。読者の皆さんのなかには、こうした市域の地形は古くからのものだと思っている方もおられるかもしれません。しかしながら、いまから6千年前、市域のほとんどは海の底でした。それが地球的規模の気候寒冷化によって極地の氷床が拡大し、海水面が海側に後退(海退)していき、徐々に平野が形成されていったのです。
 武庫川や猪名川も、太古から現在の流路を流れていたわけではありません。氾濫〔はんらん〕を繰り返し、浸食や堆積を重ね、次第に流路が固定されていきました。
 人々はこうした自然の営みと闘いながら、またうまく利用しながら住居を建て、田畑を切り開き、そして人々や物資が集まる町をつくるといった開発をすすめ、そこでさまざまな歴史ドラマを繰り広げてきました。
 では市域の歴史の舞台となった平野は、いったいどれくらいの歳月をかけて、どのように形成されていったのでしょうか。歴史を考えるうえで、その舞台となった地域の地形を知ることはたいへん重要なことです。人々は決してむやみに開発していったのではなく、そこが村・町、あるいは城にふさわしい場所であるかどうかを見極めながら開発をすすめたからです。現在の地形を見ると、どうしてこんな場所に縄文時代・弥生時代の集落、中世の荘園や近世の村があったのかわからないことがありますが、その時代の地形を知れば、なるほどと思わされます。また、文献を調べるだけではわからない知見を得ることもできます。
 本書の最初に市域の地形を叙述するのは、以上のような理由からです。歴史の舞台となった各時代の地形を知ることで、人々の営みをより深く知ることができるはずです。

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地下の地形、地表の地形

 驚かれたかもしれません。6千年前、市域は海の底であったことを。その頃は、現在より平均気温で約2度、海水面は3〜5mも高かったと言われており、その影響で海岸線は陸地側に前進していきました。これを縄文海進と言います。序説1「縄文海進前の尼崎の地下」は、いまでは地下深くに埋没している海進前の市域の地形について叙述しています。
 縄文海進以前も海進・海退が繰り返され、特色ある地形が形成されていましたが、それは縄文海進により海面下に没し、その上に粘土層などが堆積していきました。そのため私たちは海進前の地形を見ることはできないのですが、地質調査によって、平野が広がる現在の地形からは想像できない多段の段丘〔だんきゅう〕地形が地下に眠っていることがわかります。
 その後、気候の寒冷化によって海退が始まり、徐々に平野が形成されていきました。その土砂をもたらした猪名川・武庫川は何度も流路を変えながら、浸食や堆積を繰り返しました。序説2「尼崎市域の微地形」は、こうした市域の平野が形成されていく様子について、昭和17年(1942)に撮影された空中写真から、武庫川・猪名川の流路の変遷〔へんせん〕や海岸線の前進・後退を読み取りながら叙述しています。
 人間の歴史は開発の歴史とも言えます。微地形を読み取ることで、文献史料からではわからない開発の歩みに迫ることができます。自然環境を巧みに利用しながら集落を形成し、田畑を切り開き、用水路を設置していったことを知ることができます。こうした開発に不可欠な技術について、干拓〔かんたく〕・築堤を中心に叙述したのがコラム「前近代の干拓技術」です。コンクリートなど便利な資材がない時代、身の回りにある樹木などを用いた技術力の高さには驚かされます。
 この尼崎の平野に人々が暮らし始めるのは、いまから2千数百年前から始まったとされる弥生時代のことです。弥生時代には海岸線が現在の阪急神戸線からJR東海道線辺りにまで南下し、人々が生活するようになったのです。大和や河内などで見られるような大きな古墳ではありませんが、市域でも4世紀後半から5世紀末の古墳が確認されることから、海退によって形成された平野が人々の生活の場になっていったことがわかります。
 これを加速させたのが、延暦3年(784)の長岡京遷都〔せんと〕にともなう神崎川と淀川をつなぐ水路の開削です。翌延暦4年にかけてこの水路が開かれたことで、神崎川は都と瀬戸内・西国を結ぶ交通路となり、平安時代後期には市域の神崎・今福・杭瀬・長洲〔ながす〕・大物〔だいもつ〕などといった、川船と渡海船を乗り換える河口の港が栄えました。
 尼崎という地名が歴史上はじめて登場するのも、この頃のことです。鎌倉初期の史料には、現在の阪神尼崎駅から大物駅にかけての南側辺りに、久安年間(1145〜51)頃に新しく開発されたと思われる土地の名前として「尼崎」が見えます。この尼崎の地は港町として発展し、鎌倉・室町期の史料には「海士崎」「海人崎」「海崎」とも記されており、いずれも「あまがさき」と読んだものと思われます。「あま」とは、古代・中世には漁民・海民を意味し、「さき」=「崎」は岬に通ずる言葉なので、「あまがさき」とは漁民・海民が暮らす、海に突き出た場所ということになります。やがてこの尼崎には、大覚寺や本興寺を中心に、中世日本有数の自治都市が形成されました。
 こうした神崎川河口の繁栄に加えて、市域では古代以来各所に荘園開発がすすめられ、やがて近世には豊かな農漁業地帯、近代には日本を代表する工業都市のひとつとなっていきます。

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「読む」から「調べる」へ

 本書においては、市域で繰り広げられたこうした歴史について、いくつかのテーマに焦点を当てて、図版や史料を用いながら、具体的に叙述することを心がけました。そのため、取りあげることができなかったテーマも少なくありませんし、その時代の全体像がわかりにくくなっている場合もあります。そこで各節の冒頭に「この節を理解するために」という頁を設け、その時代の大きな流れを叙述しました。一読のうえ、時代の流れや他のテーマとの関係性を意識しながら読みすすめていただければ、より理解が深まると思います。
 また、本書に読み方の決まりはありません。古代から順番に読んでいく。反対に、現代から近代、近世へとさかのぼる。各時代の「この節を理解するために」や図版の解説だけを読む。あるいは、面白そうなテーマやコラムから読み始め、そこからその時代、さらには他の時代へと興味・関心を広げていく。型にはまらない読み方をすることで、新しい発見があるかもしれません。
 さらに関心が深まれば、みずから史料を読み、文献などを調べて、自分自身で歴史の生の声を聞いてみてください。耳を澄ますと、本書を読んだときとは違う声が聞こえるかもしれません。聞こえていなかった人々の息づかいや、遠くからかすかに聞こえる小さな声を耳にすることができるかもしれません。
 本書では、読者の皆さんがこうした歴史の生の声を聞く足がかりになるような編集を心がけ、その方法やポイントもまとめました。地域研究史料館はそのために必要な書籍や史料などを多数所蔵し、皆さんが調べるお手伝いをしています。
 読者でいるだけでは物足りなくなった方が、自分自身で調べ、研究できる施設があわせて用意されている点に、『図説 尼崎の歴史』の特長があります。本書と地域研究史料館とをうまく活用して、歴史の生の声を聞くことに挑戦してみてください。

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