中世編第1節/中世社会の形成/この節を理解するために(田中文英)




摂津源氏の祖、多田満仲の像  
川西市 JR川西池田駅前

 古代律令国家の支配体制は、10世紀に入る頃から崩壊し始め、やがて11世紀から12世紀にかけて、中世的社会と支配体制が本格的に形成されていきます。この律令制支配の解体から中世的社会のしくみへの変化には、もとより多様な要因があり、また複雑な過程をたどりますが、そのなかでもっとも注目すべき現象は、次のふたつです。

田堵の開発活動

 そのひとつは、田堵〔たと〕や在地領主など、さまざまな在地諸勢力が台頭して開発活動を活発に展開することです。とくに「田堵」とよばれる農民層は、古代班田〔はんでん〕農民とは違い、自立して安定的な農業経営を行なえる力量をそなえた農民であり、田畠を開墾し、荘田・公田の耕作を請負うなどの生産活動を推進し、やがてその多くは、名主〔みょうしゅ〕百姓層として中世村落の中核となる存在です。天慶8年(945)に摂津国川辺郡から起こった志多羅神〔しだらがみ〕事件などは、そうした田堵農民層による開発活動の高揚を示す一例です(本節3参照)。

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武装した在地領主

 また、同じ頃から農村には在地領主が出現し始めます。この在地領主は、土着国司や郡司などに系譜を持つ土豪や大田堵などのなかから出てきますが、彼らは所領を持ち武装して周辺農民を支配しつつ領主としての地位を築きあげていきます。そのうちのある者は、中央貴族と私的な服従関係を結んで「侍」「武者」などとして活動します。摂津国では源満仲が、安和〔あんな〕の変後、天禄元年(970)頃に川辺郡多田(現川西市)の地に館を構えて武士団を形成するのが早い例です。その子孫は摂津源氏(多田源氏)と呼ばれて周辺に勢力を拡張していきます。

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伝名月姫墓宝篋印塔

 市内尾浜の八幡神社境内にある鎌倉時代後期の塔。地域に伝わる名月姫伝説の時代設定は造立年代より古く、平清盛の時代。この辺りの地頭の娘・名月姫と多田源氏一族の能勢氏にまつわる伝説は、多田源氏一族の尼崎地域への進出を想起させます。

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荘園の激増

 さて、もうひとつの現象は、こうした在地諸階層による開発の進展を基盤として、11世紀から12世紀にかけて荘園が激増してくることです。それらの荘園は農民層や在地領主が、国司の課す租税・課役を逃れたり、武士の侵略などから権益を守ったりするために、権門貴族や寺社などに田畠を寄進したり、身分的従属関係を結んだりして政治的保護を受けることを目的として形成したものでした。したがって、寄進地系荘園と言われます。もっとも、一括して荘園と総称されるものの、内容的には御厨〔みくりや〕・御園〔みその〕・牧など多様な形態のものが含まれています。

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地域開発の特色

 ところで、このような在地諸階層による開発活動の進展と荘園制の発達は、全国的に広く見られる現象です。もとよりそれは、各地の自然地理的条件や歴史的環境などによって、多様な形態をとって展開されました。そこで本節では、地域開発と荘園のあり方をできるだけ具体的に検討することによって、尼崎地域における中世的な地域社会の形成の特色を考えたいと思います。
 この時期の尼崎地域の開発のあり方は、大きく次の三つに分けることができます。
 第一は、神崎川と猪名川の合流点から河口にかけての流域です。この地域は、西日本と京都とを結ぶ水上交通の要衝〔ようしょう〕として、神崎をはじめいくつもの港津〔こうしん〕が発達します。12世紀に入ると、荘園や貴族の別荘などが相次いで設定されて住人の集住がすすみ、漁業・運輸・交易などの経済活動が盛んになっていきます。その様相については本節1「神崎川流域の発達と港津」の項で取りあげました。
 第二は、東大寺領猪名荘〔いなのしょう〕の海岸部に位置する長洲〔ながす〕浜を中心とした地域です。長洲浜は、本来、猪名荘に付属する浜地でしたが、あまり開発がなされていませんでした。ところが、この地域は猪名川・神崎川・武庫川など大小の河川と大阪湾内の沿岸流の作用によって土地の自然造成がすすみ、少なくとも12世紀になると、尼崎・大物〔だいもつ〕・杭瀬・寺江などの洲・浜や開田の可能な野地〔やち〕などがいくつも形成されていきました。そうした状況のなかで、この浜に鴨社の長洲御厨が設置されると多数の漁民・海民などが来住して急激に開発が進展し、やがてこの地は港湾都市的様相を呈するようになります。その点については、本節2「猪名荘の発展と長洲御厨」の項において解説しています。
 第三は、猪名野とその周辺地域の開発です。猪名野は、伊丹段丘〔だんきゅう〕とよばれる台地上に位置し、未開の荒野などが多く存在したので、王朝貴族の歌枕の世界では荒涼たる原野としてのイメージが定着していました。しかし、この地域でも、10世紀中頃から住人による開発活動が活発に展開され、橘御園〔たちばなのみその〕をはじめいくつもの荘園が設定されていきました。本節3「『猪名の笹原』と橘御園」の項では、その開発と住人の存在形態、荘園制支配の特色などを検討しました。

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武士勢力と港湾都市

 さて、こうして開発がすすみ、荘園が発達すると、その一方で、新開地の利権や荘園支配関係等々をめぐって複雑な対立・抗争・争論などが頻発〔ひんぱつ〕し、中世社会の激動がいよいよ深まっていくことになります。そして、12世紀中頃になり、新興の源平武士勢力がこの地に進出するようになると、対立・抗争は一段と激化し、尼崎地域は次第に争乱の渦中に巻き込まれていきます。その点については、本節4「平安末期の動乱と尼崎地域」の項で述べました。
 ところで、神崎川の河口付近の河尻〔かわじり〕地域が、政治的・経済的に極めて重要な位置を占め、平安末期から鎌倉期にかけて、大物浦・河尻一洲〔いちのす〕などが港湾都市化しつつあったことが指摘されてきました。しかし、文献史料によってその内容を具体的にあきらかにすることは極めて困難でした。ところが、平成6年(1994)から始まった「大物遺跡」の発掘調査の貴重な成果によって、その具体的な内容と流通上に占める位置などがくわしく解明されることになりました。この点については本節5「大物遺跡と流通」の項で論じられています。

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法然上人と神崎遊女の伝説


「五人遊女塚由来絵巻物」
大正5年(1916)小野利教画・文
(地域研究史料館蔵、田中大庄次郎氏文書(3))
 18世紀末刊行の『摂津名所図会〔ずえ〕』は、建永2年(1207)法然上人が讃岐国に流される途中、神崎の津(川の港)で宮城ほか5人の遊女が上人に身の罪業〔ざいごう〕の深さを懺悔〔ざんげ〕して入水〔じゅすい〕したとの伝説を記しています。
 もと神崎にあった尼崎寺町の如来院が元禄5年(1692)に建立したと伝えられる「遊女塚」が、今も神崎の地に残っています。

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