古代編第1節/古代社会の黎明1/西摂平野の開拓(益田日吉)




定住のきざし

 兵庫県の南東部から大阪府の北西部に位置し、東は千里丘陵、北は北摂山地、西は六甲山地と三方を山で区画され、南は大阪湾に面する東西約17km、南北約15kmの平野部を西摂〔せいせつ〕平野と呼んでいます。西摂平野は、北摂山地の南端に位置する長尾丘陵から舌状に張り出した伊丹段丘〔だんきゅう〕と呼ばれる洪積〔こうせき〕台地と猪名川・武庫川および大阪湾の沿岸流によって形成された沖積〔ちゅうせき〕地、さらに西につづく六甲山南麓〔なんろく〕の狭小な沖積地からなっています。
 では、この西摂平野に人類が住みつくようになったのはいつ頃のことでしょうか。芦屋市朝日ヶ丘遺跡や川西市加茂遺跡からナイフ形石器などの旧石器時代の資料が出土しています。しかしこれらは散発的で、生活の痕跡〔こんせき〕をうかがい知ることはできません。
 次いで約1万2千年前に始まる縄文時代は、一般的に草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六時期にわけられています。西摂地域では、芦屋市山芦屋遺跡や朝日ヶ丘遺跡から縄文時代前期の土器とともに早期の土器が少量出土しています。また、芦屋市業平〔なりひら〕遺跡では前期の石器製作址〔あと〕が見つかっていて、この時代には六甲山南麓の丘陵地域や扇状地に人々が住み始めたことが確認されています。その後、縄文時代後期になると沖積地にも集落が営まれるようになります。尼崎市域でもこの時期の土器が猪名庄〔いなのしょう〕遺跡の下層から出土しています。また晩期になると藻〔も〕川川床遺跡・猪名川川床遺跡でも土器が少量採集されています。
 尼崎市域で人々が生活を営んだ明確な痕跡を確認することができるのは、弥生時代になってのことです。約2,400年前、北部九州から近畿地方へ伝わったとされる弥生文化は、比較的早い段階に本州最北端の青森県まで伝わっていたことが確認されています。大陸や朝鮮半島から渡ってきた人々がもたらした水稲耕作、金属器、機織りなどさまざまな新しい技術をともなった弥生文化は、狩猟・採集経済から水稲農耕による生産経済への移行、青銅器・鉄器の生産と使用、中国・朝鮮半島との交渉など日本列島の後々の時代にまで影響を及ぼす大きな社会変革をもたらしました。

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弥生時代の実年代

 弥生時代は一般的に、土器の変化によって前期・中期・後期の三時期にわけられてきました。しかし、近年縄文時代晩期とされてきた土器をともなって水稲耕作の痕跡を示す遺跡が北部九州を中心に西日本各地で確認されるようになったことから、前期のまえに早期を設定する考えが示され、最近では早期を含めた四時期に区分する傾向が強まっています。
 一方、近年弥生時代の実年代については、おもに北部九州の遺跡から出土した土器がAMS法(加速器質量分析法)による炭素14年代測定法によって、早期が紀元前9世紀、前期が紀元前8世紀から4世紀の間にまで遡〔さかのぼ〕るのではないかとの測定結果が示されています。また、和泉市池上曽根遺跡や尼崎市武庫庄〔むこのしょう〕遺跡で発見された弥生時代中期の建物の柱が、年輪年代法によって従来考古学で考えられていた年代より100年あるいはそれ以上遡るような測定結果が示されるなど、弥生時代の実年代について再検討を求める研究成果が自然科学の手法によって次々と示されています。
 こうしたことから、今日、弥生時代各時期の実年代を示すことはむずかしい状況ですが、近い将来資料の考古学的な検証、検討と各種年代測定成果の積み重ねによって次第にあきらかになってくると思います。

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低湿地で始まる水稲農耕

 さて、西摂平野で最古の稲作の痕跡を示す資料は、伊丹市口酒井〔くちさかい〕遺跡から出土した籾〔もみ〕跡のついた縄文時代晩期後半の土器と石庖丁です。東大阪市鬼虎〔きとら〕川遺跡・柏原市船橋遺跡などでも籾跡のついた縄文時代晩期の土器が出土していて、近畿地方での弥生時代早期の存在とともに、農耕文化受容の様相を示す資料として注目されています。しかし、西摂平野に水稲農耕が本格的に波及するのは弥生時代前期になってのことです。
 前期の集落としては、猪名川下流域の尼崎市田能〔たの〕遺跡・古宮遺跡・伊丹市口酒井遺跡・豊中市勝部遺跡、武庫川下流域の尼崎市上ノ島〔かみのしま〕遺跡・東武庫遺跡・西宮市北口遺跡、六甲山南麓の業平遺跡・寺田遺跡・神戸市北青木〔おうぎ〕遺跡などがあります。
 いずれの遺跡も河川の河口部にできた砂堆〔さたい〕や自然堤防などの微高地、あるいは扇状地の先端に立地し、近くに湿地をひかえた場所に位置しています。このことから弥生時代前期の段階では、労働量や技術的な問題などから、本格的な灌漑〔かんがい〕施設を設けなくても比較的容易に開墾可能な低湿地を水田として利用していたと考えられてきました。しかし、最近では小河川に堰〔せき〕を設けた、弥生時代前期後半の灌漑施設が見つかっています。西摂平野でも田能遺跡に近い伊丹市岩屋遺跡で、幅約10メートルから15メートルの蛇行〔だこう〕した河川から2本の用水路に水を引くために、前期末から中期初頭に造られた堰が2か所確認されています。このことから弥生時代前期後半には、小河川の水をある程度制御できるだけの灌漑技術を有していたことがあきらかになってきました。

前期の堰〔せき〕跡
48 伊丹市岩屋遺跡
兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所『平成15年度 年報』より

 また、東武庫遺跡では弥生時代前期から中期初頭にかけての22基の方形周溝墓〔ほうけいしゅうこうぼ〕(埋葬施設の周囲を溝で方形に区画した墓)が見つかり、擬朝鮮系無文〔むもん〕土器と呼ばれる弥生時代早期から前期前半にあたる時期に朝鮮半島で作られた土器に近い形の壺が出土しています。これは、弥生時代に各地に広まる方形周溝墓のなかではもっとも古いもののひとつで、擬朝鮮系無文土器の出土とともに、方形周溝墓がいつどこでどのように出現したかを考えるうえで重要な発見となっています。

前期の方形周溝墓
78 尼崎市東武庫遺跡
兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所『ひょうごの遺跡』13より

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大規模集落と大型建物の出現

 前期に定着した弥生文化が大きく発展し開花するのが中期です。中期の集落は、猪名川流域では前期から続く田能遺跡・口酒井遺跡・勝部遺跡のほか、豊中市新免〔しんめん〕遺跡、上流部の川西市加茂遺跡・栄根〔さかね〕遺跡・池田市宮の前遺跡・城山遺跡などが新たに出現します。武庫川流域では、下流部の尼崎市栗山・庄下〔しょうげ〕川遺跡、中流部の尼崎市北裏遺跡・武庫庄遺跡、上流部の伊丹市西野遺跡などが新たに出現します。千里丘陵や六甲山東南麓の地域では、高地性集落と呼ばれる丘陵や山地上の高所に集落が営まれ、中期中頃には豊中市待兼山〔まちかねやま〕遺跡・芦屋市会下山〔えげのやま〕遺跡、中期後半には芦屋市城山遺跡・西宮市越水〔こしみず〕山遺跡・仁川五ヶ山〔にがわごかやま〕遺跡などが出現します。とりわけ武庫庄遺跡では近畿地方でも最大規模の中期中頃の大型掘立柱建物が見つかり、一躍脚光を浴びました(詳細は本節1コラム「大型掘立柱建物」参照)。

中期の大型掘立柱建物跡
79 尼崎市武庫庄遺跡
写真提供:尼崎市教育委員会

 前期の集落は、河口部に位置し、規模も比較的小さなものであったのに対し、中期になると河川沿いに上流部へと遺跡の分布に広がりが見られ、段丘上にも集落が営まれるようになります。また、中期中頃になると武庫庄遺跡や加茂遺跡のように大型建物を有し、地域の拠点と考えられる大規模な集落も出現します。

中期の大型掘立柱建物
69 川西市摂津加茂遺跡
川西市教育委員会『史跡 加茂遺跡』より

 これは鉄製農工具の受容や労働力の集約を背景とした大規模な灌漑施設の導入などによって水田可耕地が拡大し、河川の上流部へと開発がすすんだためと考えられます。また、生産量の増大によって、地域の拠点となる大規模な集落が出現するとともに、集落間、集落内部での階層分化も進展したものと考えられます。
 また、前期の土器が斉一〔せいいつ〕的であったのに対し、中期の土器は形や文様などにバリエーションが広がり、摂津、河内、和泉など旧国単位程度のまとまりを持った地域色が認められます。しかし、後期にはふたたび畿内地域全域でよく似た形の土器へと変化していきます。

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小規模集落、河口部に出現

 中期に開花した弥生文化がさらに発展し、階級社会が成立する次の古墳時代へのかけ橋となるのが後期です。後期の集落は、猪名川流域では田能遺跡・加茂遺跡・栄根遺跡など中期から継続する遺跡のほか、新たに河口部に尼崎市東園田遺跡・四ノ坪〔よんのつぼ〕遺跡・若王寺〔なこうじ〕遺跡・下坂部〔しもさかべ〕遺跡、段丘先端部に尼崎市中ノ田遺跡・松ヶ内遺跡が出現します。武庫川流域では、栗山・庄下川遺跡・北裏遺跡など中期から継続する遺跡のほか、新たに河口部に尼崎市西貝原遺跡・久保田遺跡・水堂〔みずどう〕古墳下層遺跡・西宮市北口遺跡・高畑遺跡などが出現します。六甲山東南麓の地域では、西宮市越水山遺跡など中期から継続する遺跡のほか、新たに芦屋市三条九ノ坪遺跡・月若遺跡・寺田遺跡などが出現します。
 中期に河川上流部へと広がりを見せた集落の分布とは対照的に、後期になると河口部の沖積地に多くの遺跡が出現します。ただ、後期前半からの集落は比較的少なく、後期後半からの集落が目立ちます。また、集落の規模も比較的小さなものが多いようです。一方、中期中頃に最盛期を迎えた武庫庄遺跡や加茂遺跡のような地域の拠点と考えられる大規模な集落は急速に規模を縮小し、武庫庄遺跡では後期の遺構は極端に減少します。これは、西摂地域だけのことではなく、大阪湾沿岸の各地域をはじめ大和・河内の畿内中枢地域でも認められる傾向で、後期になって畿内の広い地域で社会構造上の大きな変化が訪れたことを示しているようです。
 西摂平野の開拓は、沖積地の拡大とともに、鉄製農工具の受容や農耕技術の発達によってすすめられてきました。しかし、その道のりは決して平坦なものではなかったようです。
 前期の集落跡として知られる上ノ島遺跡では洪水の跡が確認されています。また、中期以降に出現する高地性集落、中期以降発達する石鏃などの石製武器、各地の遺跡から見つかる石鏃が刺さった人骨など、戦乱を想像させる資料も増加しています。中国の歴史書では弥生時代後期にあたる時期に「倭〔わ〕国大乱」の記録も見えます。このように、自然災害や集団間の抗争など幾多の困難を乗り越えて、弥生時代の開拓はすすめられてきたようです。その後、古墳時代になると畿内政権が確立します。畿内の西の玄関口にあたる西摂平野の開拓は、さらに拡大する沖積地とともに大いに進展します。

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西摂地域のおもな弥生遺跡

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