古代編第1節/古代社会の黎明2/古墳の築造と展開 ――尼崎市域の古墳の位置付け――(田中晋作)
西摂地域での古墳の出現
奈良県ホケノ山古墳の発掘調査によって、古墳の出現が3世紀半ばまでさかのぼる可能性が指摘されるようになりました。むろん、全国一律に古墳の築造が始まり、古墳時代の終わる8世紀前後まで古墳の築造が継続するというわけではありません。また、古墳は墳墓であると同時に、極めて政治性の高い構造物でもあります。その動静は、限られた地域で完結するのではなく、常に時の中枢勢力の趨勢〔すうせい〕と緊密な関係をもって移り変わっています。尼崎市域について考える場合、少なくとも西摂〔せいせつ〕地域(摂津国西部)という範囲でその動向をとらえる必要があります(以下の記述については、後掲の「時期別古墳分布図」参照)。
さて、西摂地域では、古墳や古墳群は芦屋市域以西の海の迫る狭隘〔きょうあい〕な六甲山南麓〔なんろく〕と、西宮市域以東の西摂平野に展開しています。西摂地域は畿内でももっとも早く古墳が出現した地域のひとつで、3世紀後半、六甲山南麓東部に前方後方墳の神戸市西求女塚〔にしもとめづか〕古墳が築造され、その後、処女塚〔おとめづか〕古墳→東求女塚古墳→ヘボソ塚古墳→阿保〔あぼ〕親王塚古墳と、4世紀末まで、海浜地域を西から東に向かって一定の距離を置きながら古墳の築造が継続しています。
西求女塚古墳に遅れる4世紀半ばないしは後半頃から、西摂地域各地に古墳が出現し、それぞれの地域で継続的な築造が見られます。六甲山南麓西部では神戸市夢野丸山古墳→会下山〔えげやま〕二本松古墳・得能山〔とくのうさん〕古墳→念仏山古墳、西摂平野北部では長尾山丘陵に宝塚市長尾山古墳→万籟山〔ばんらいさん〕古墳、五月山〔さつきやま〕南麓に池田市池田茶臼山〔ちゃうすやま〕古墳→娯三堂〔ごさんどう〕古墳、同東部の豊中台地には豊中市大石塚古墳→小石塚古墳(桜塚古墳群西群)などです。尼崎市域では、伊丹市上臈塚〔じょうろうづか〕古墳に続く池田山古墳から古墳の築造が始まります。また、豊中市待兼山〔まちかねやま〕古墳や同御神山〔ごしんざん〕古墳、宝塚市安倉〔あくら〕古墳などもこの時期に築造された古墳です。これらが古墳時代前期に属します。
ところで、同じように古墳を築造していても、古墳の形や規模、また、埋葬施設の構造や副葬品などにさまざまな違いが見られます。西摂地域では、とくに副葬品の構成に際立った違いが見られます。西求女塚古墳から始まるグループでは、前期の代表的な威信財である三角縁神獣鏡〔さんかくぶちしんじゅうきょう〕が数多く出土しています。しかし、夢野丸山古墳のグループや西摂平野では、御神山古墳と伝池田市域、後述する尼崎市水堂〔みずどう〕古墳出土の3面以外に三角縁神獣鏡の出土が知られていません。ところが、同様の性格をもつ石製腕飾類は、夢野丸山古墳のグループを除く各地域で密度の高い分布が見られます。また逆に、西摂地域では、前期の有力古墳から出土している銅鏃は、夢野丸山古墳を除いて現在のところ出土していません。
このような現象は、当時の大和盆地東南部地域(大和古墳群・柳本古墳群)や、その後を受けて台頭する大和盆地北部地域(佐紀古墳群西群)にあった中枢勢力と、西摂地域各地の勢力との関係を反映していると言えそうです。とくに、西求女塚古墳から始まるグループは、大和盆地南東部地域の中枢勢力と早くから密接な関係を持ち、これらの古墳が海浜部に位置することから、海上を含めた交通路の掌握といったような特殊な要因を背景に台頭した勢力であったのかもしれません。
猪名野古墳群と桜塚古墳群東群
4世紀半ば以降、奈良県佐紀古墳群西群が強勢を誇ってきましたが、4世紀末頃、これに替わり藤井寺市と羽曳野〔はびきの〕市にまたがる古市〔ふるいち〕古墳群、堺市の百舌鳥〔もず〕古墳群で巨大前方後円墳が築造されるようになります。これに連動する新たな動きとして、西摂地域では、西摂平野東部(桜塚古墳群東群)と尼崎市域を中心とした地域のみで古墳の築造が継続し、それ以外の地域では古墳の築造が停止します。古墳時代中期への移行です。
尼崎市域を中心に形成された猪名野古墳群では、池田山古墳に続く伊居太〔いこた〕古墳→御願塚〔ごがづか〕古墳(伊丹市)→御園〔みその〕古墳→南清水〔しみず〕古墳→園田大塚山古墳、豊中台地上に展開する桜塚古墳群東群では、同西群の後を受け、大塚古墳→御獅子〔おしし〕塚古墳→女塚〔めづか〕古墳・北天平〔きたてんびん〕塚古墳・南天平塚古墳など、少なくとも数世代にわたって有力古墳の築造が継続しています。
ところで、中期全時期にわたって築造が継続する猪名野古墳群と桜塚古墳群東群には大きな違いが見られます。前者が一定の距離をおいて、首長墳が一世代一古墳という形で築造されているのに対し、後者は規模が異なる古墳がまとまりをもって築造されています。さらに、後者では、鉄製の甲冑〔かっちゅう〕を中心にした傑出〔けっしゅつ〕した武器の副葬が見られ、軍事に深くかかわった勢力であったことを示しています。対する猪名野古墳群では現在のところ、鉄製の甲冑は出土していません。当時の鉄製甲冑に代表される最新の機能を備えた武器が、百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団によって一元的に生産・供給されていたとすれば、桜塚古墳群東群の被葬者集団は、百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団のもとにあって、とくに軍事部門で重要な役割を果たしていたと言えます。猪名川をはさみ、両地域に存在した勢力の性格の違いが鮮明に表れています。また、時期が下がるにしたがって、古墳の規模が相対的に縮小するのに対して、百舌鳥・古市古墳群では古墳の規模が拡大していきます。このような現象は、周辺地域の勢力の縮小と中枢勢力の勢力拡大として理解することができます。ただし、芦屋市金津山古墳や同打出小槌〔うちでこづち〕古墳、小規模な古墳が集中する神戸市住吉町古墳群のように、5世紀後半になって新たに出現した古墳も見られるので、一元的な理解には注意を要します。
水堂古墳と三角縁神獣鏡
水堂古墳は、5世紀前半、やはりこの転換期に築造された古墳です。ところが、その副葬品のなかに、三角縁吾作〔われさく〕三神四獣鏡という鏡が含まれていました。この鏡は、前期前半の西求女塚古墳や奈良県黒塚古墳などで出土している鏡と同型です。このような古い三角縁神獣鏡が5世紀前半に築造された古墳に副葬される現象は、この転換期に築造された京都府久津川〔くつかわ〕車塚古墳や奈良県(御所市)室〔むろ〕宮山古墳といった大型前方後円墳でも見られ、その被葬者が中枢勢力の主導権交替にあたってキャスティングボートを握った有力な人々であったと考えることができます。
戻る混迷の6世紀と前方後円墳の終えん
百舌鳥古墳群で古墳築造が停止し、古市古墳群で古墳規模の相対的な縮小が始まる古墳時代後期に入り、西摂地域でも三たび大きな転換を迎えます。6世紀前半のことです。
桜塚古墳群東群で古墳の築造が突如として停止し、これに替わって、横穴式石室という新しい埋葬施設を持った前方後円墳の川西市勝福寺〔しょうふくじ〕古墳と池田市二子塚古墳が出現します。6世紀前半頃のことです。桜塚古墳群東群での古墳築造の停止は、百舌鳥・古市古墳群の勢力後退に、また、勝福寺古墳や二子塚古墳の出現は、継体天皇の古墳と推定されている高槻市今城塚〔いましろづか〕古墳の出現に連動した現象であったと考えられます。とくに、勝福寺古墳では、出土した埴輪〔はにわ〕に継体天皇の擁立〔ようりつ〕に重要な役割を果たした東海地方と共通する技法が見られるとの指摘もあります。猪名野古墳群では、ほぼ同じ頃、前方後円墳園田大塚山古墳を最後に古墳の築造が停止します。園田大塚山古墳では、当時の最新技術を駆使して製作されたすばらしい馬具が出土していますが、同時期の有力古墳に共通して見られる横穴式石室が取り入れられていません。
6世紀半ばを前後する頃、西摂地域で前方後円墳の築造が終えんを迎えます。このような現象は、西摂地域以外でも共通して見られ、百舌鳥・古市古墳群の勢力後退以降の混迷した状況から、新たな政治的枠組みを構築した大和盆地の勢力が復権を果たすまでの過程を反映していると考えられます。
群集墳の形成と巨石古墳の出現
一方、6世紀半ば前後から7世紀にわたって、宝塚市域を中心とした長尾山丘陵や芦屋市域を中心とした六甲山南麓に、群集墳と呼ばれる数基から数十基の小規模古墳を単位とする古墳群が形成され、その総数は数百基にも及んでいます。尼崎市域では、このような群集墳は見られませんが、群集墳の被葬者のなかには尼崎市域に居住した有力者が含まれている可能性はあります。それまで有力な首長層に限られていた古墳の築造が、一気に広がりを見せるようになります。
さらに、7世紀を前後する頃、西摂平野では巨石横穴式石室を持つ池田市鉢塚古墳や宝塚市白鳥塚〔はくちょうづか〕古墳、六甲山南麓では規模は劣りますが、芦屋市山芦屋古墳や同旭塚古墳が出現します。とくに、白鳥塚古墳では大和の中枢勢力が持つ巨大な家形石棺が納められており、その影響力を後ろ盾にした西摂平野の有力首長が被葬者と考えられます。西摂平野では、この段階に大和盆地の中枢勢力と深い関係をもつ白鳥塚古墳の被葬者のもとに、まとまりを持つに至ったと言えそうです。
7世紀後半、西摂地域は400年間の長きにわたった古墳の時代が終えんを迎えます。このような古墳の推移に映し出された数々の現象は、古代国家成立に至る道程のある部分を反映したものであると言えます。
西摂の古墳築造年表
〔参考文献〕
浅岡俊夫「信長に消された猪名野の前期古墳−上臈塚古墳−」(『実証の地域史』大阪経済法科大学出版部、平成13年)
田中晋作『百舌鳥・古市古墳群の研究』(学生社、平成13年)
関西大学文学部考古学研究室『八十塚古墳群の研究』 (同研究室、平成14年)
廣瀬覚「摂津猪名川流域における前期古墳の埴輪とその系譜」(『古代文化』55−9、平成15年)
大阪大学大学院文学研究科『西日本における前方後円墳消滅過程の比較研究』(同研究科、平成16年)
神戸市教育委員会『西求女塚古墳発掘調査報告書』(同委員会、平成16年)