古代編第1節/古代社会の黎明3/大和王権と猪名川流域(高橋明裕)

大阪湾岸の港湾としての尼崎地域

 古代の尼崎が大阪湾岸地域のなかで特殊な地位を占めたことは、文献史料からもうかがうことができます。『万葉集』には古代の猪名川・武庫川河口域の景観を詠んだ和歌が載せられています。

 大き海に あらしな吹きそ しなが鳥
   猪名の湊〔みなと〕に 船泊〔は〕つるまで(万葉集1189)    
−大海に あらしよ吹くな(しなが鳥は「猪名」にかかる枕詞)猪名の湊に 船が着くまで−

 朝開き 漕ぎ出て来れば 武庫の浦の
  潮干〔しおひ〕の潟に 鶴〔たづ〕が声すも(万葉集3595)
−朝早く 舟を漕ぎ出して来ると 武庫の浦の潮が引いた潟に 鶴の声がすることだ −

古代の文献では、湊は川や海などの出入り口を意味し、湾や河口を利用して船が碇泊〔ていはく〕できる場所でした。浦は漁村を意味する場合がありますが、江や浜などと同様、風待ちや夜を過ごすための碇泊地のことです。万葉集1189の歌から、古代の猪名川の河口には風待ちや避難のための港湾が存在したことがわかります。武庫川の河口は万葉集3595の歌にあるように干潟になっていました。

 しなが鳥 猪名野を来れば 有間山〔ありまやま〕
  夕霧たちぬ 宿りはなくて(一本に云ふ、猪名の浦廻〔うらみ〕を漕ぎ来れば)(万葉集1140)
−(しなが鳥)猪名野をはるばるやって来ると 有間山に夕霧が立ってきた 泊まるべき所もなく(ある本には「猪名の浦廻を 漕いで来るうちに」)−

浦廻とは海岸沿いの段丘〔だんきゅう〕の崖下に、干潮の時だけ通行できる砂州〔さす〕ができていることを意味し、干潮時に干潟と干潟の間になごりと呼ばれる水溜〔たま〕りができている状態を示しています。砂州列によって外海から隔てられたこのような水域はラグーン(潟湖)と呼ばれ、船を繋留〔けいりゅう〕するのに適した天然の良港でした。

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大和王権の対外的発展と港湾

 しかし、これらの港湾は、この地域の漁民などが利用するだけのものではありませんでした。武庫水門〔むこのみなと〕と呼ばれた武庫川河口には、大和王権が諸国に命じて造らせた五百艘〔そう〕の官船(朝廷の船)が集結していたという伝承があります。また、この地域には、木材の切り出しや造船技術者の猪名部〔べ〕にまつわる伝承も存在しています(本節4参照)
 大阪湾岸地域には、大和王権が朝鮮半島に軍船を送る際に、浜や湊で占いや祭祀を行なったとする伝承が各地にあります。それらの伝承に共通して登場するのが、神功〔じんぐう〕皇后(息長帯日売命〔おきながたらしひめのみこと〕)です(下記「神功皇后」参照)。『古事記』『日本書紀』において、仲哀天皇の皇后・神功皇后は、神のお告げに従って「三韓(新羅〔しらぎ〕・高句麗〔こうくり〕・百済〔くだら〕)征伐」を行ないます。皇后は、三韓からの帰路、鹿坂〔かごさか〕王・忍熊〔おしくま〕王に反乱を起こされ、武庫水門で占いを行ないます。天照大神〔あまてらすおおみかみ〕をはじめとした神々の教えにより、広田、生田〔いくた〕、長田、「大津淳名倉長峡〔おおつのぬなくらのながお〕」(住吉)の地にそれぞれ神を祀〔まつ〕り、反乱者を滅ぼすことができたと言います。これは広田神社、生田神社、長田神社、住吉大社の起源を語る伝承であり、このなかでもっとも重要な役割を果たしているのが住吉大神〔おおかみ〕です。海と航海の安全を守る神である住吉大神が、大阪湾岸から瀬戸内海沿岸にかけて大和王権の朝鮮半島への進出と深く関わる形で伝承化されています。
 神功皇后は、実在の人物とは考えがたく、伝承上の存在です。
 では、武庫水門に朝廷の船が集結したという伝承や、大阪湾岸に広がる神功皇后の伝承は何を意味するのでしょうか。それは、4世紀後半頃より本格化する、大和王権主導の朝鮮半島との外交が関係していると思われます。大和王権は大陸への海上交通路である大阪湾岸から瀬戸内海沿岸の港湾をどのように掌握していったのでしょうか。

神功皇后
仲哀天皇の皇后で、胎中に後の応神天皇を宿したまま三韓征伐を行なったとされる。神功皇后伝承の背景として、百済復興のための出兵をしようとした女帝・斉明天皇をモデルとしたという説、推古・斉明・持統の3人の女帝の像が反映しているという説、応神天皇の母として描かれることから地母神信仰が基盤にあるという説などがある。

〔参考文献〕 
 日下雅義『古代景観の復原』(中央公論社、平成3年)

古代の船団 『兵庫県埋蔵文化財情報・ひょうごの遺跡』37より
 袴狭〔はかざ〕遺跡(兵庫県豊岡市)から出土した木製品に描かれていた線刻画の模式図。描かれている15隻の船は、丸木舟に波除けの竪板と舷側板を取り付けた「準構造船」と称されている船で、4世紀初頭、古墳時代前期の外洋航海が可能な船団です。

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神功皇后伝承に関連する大阪湾岸の式内社の分布

 兵庫県域では、西から長田神社(神戸市長田区長田町)・生田神社(神戸市中央区下山手通)・敏馬〔みぬめ〕神社(神戸市灘区岩屋中町)・広田神社(西宮市大社町)・岡太〔おかだ〕神社(西宮市小松南町)・伊佐具〔いさぐ〕神社(尼崎市上坂部〔かみさかべ〕)。大阪市域では、北から坐摩〔ざま〕神社(旧所在地:中央区石町)・赤留比売命〔あかるひめのみこと〕神社(現杭全〔くまた〕神社摂社、平野区平野東)・住吉神社(住吉区住吉)・大海〔だいかい〕神社(現住吉神社摂社)・船玉〔ふなたま〕神社(現住吉神社摂社)・神須牟地〔かみすむち〕神社(住吉区長居)・多米〔ための〕神社(旧跡:住吉区長居)・中臣須牟地〔なかとみすむち〕神社(東住吉区住道〔すんじ〕矢田)です。図にはありませんが、奈良県域では片岡神社(北葛城郡王寺町王寺)があげられます。
 現在、尼崎市内の梶ヶ島をはじめ各地に住吉神社が点在しますが、それらはほとんど古代までさかのぼりません。10世紀の記録で確認できるのが式内社〔しきないしゃ〕です。このほか、同じ頃の百科辞書である『和名類聚抄〔わみょうるいじゅうしょう〕』によれば、西日本では摂津国莵原〔うはら〕郡、播磨国明石郡・賀古郡・賀茂郡、長門国阿武〔あぶ〕郡に住吉郷の地名が存在し、住吉大社への信仰の広がりを示しています。

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海洋祭祀と港湾

 「摂津国風土記」は現存しませんが、鎌倉時代に記録された逸文〔いつぶん〕に次のような伝承があります。やはり神功皇后が筑紫に赴〔おもむ〕くに際して、神々がこれを護り佑〔たす〕けるために川辺郡(河辺郡)の神前〔かんざき〕の松原に集まりました。そのとき、能勢〔のせ〕郡の美奴売〔みぬめ〕山の神がその地の杉の木で船を作るよう命じ、この神の船の力で皇后は新羅を征討することができました。帰還後、その船を神に献上するために留めた浦が美奴売の松原(美奴売の浦)と呼ばれるようになった、というものです。
 この伝承は、美奴売(敏馬〔みぬめ〕)浦で海洋・航海神を祀る敏馬神社(前掲「神功皇后伝承に関連する大阪湾岸の式内社の分布」図参照)の起源を語るものですが、注目されるのは、各地の湊・浦の海洋・航海神が神前の松原に集合していることです。神前(神崎)は、現在の神崎川西岸の神崎町と地名が一致します。古代には、この付近はラグーンの入江だったと思われます。旧猪名川の流路も、今日とは異なっていました。武庫川・猪名川と大阪湾の沿岸流が運ぶ土砂は砂州を形成し、その内側がラグーンとして天然の湊になっていたと考えられます。武庫水門と猪名湊は区別されたと思われますが、ラグーンの入り口にあたる河口の浜辺は、港湾全体の祭祀を行なうのにふさわしい場所だったのでしょう。西方の敏馬浦の神も神前の松原に集うように語られる理由は、この地が各地の港湾の神々を共同で祭祀していた痕跡〔こんせき〕をうかがわせます。
 各地の湊、浦、浜、泊〔とまり〕は、それぞれは風待ちや嵐よけの小規模な天然の港湾ですが、それらが全体として、大和王権のいわば国家的な港湾として機能したと思われます。それぞれの海の潮流や風向きを熟知した在地の海洋民、および彼らを統率した豪族を束ねていくことが、海洋ルートの掌握のために大きな意味を持ったはずです。
 瀬戸内各地に広まった住吉大神への信仰、共同の海洋祭祀という形で、港湾の掌握が行なわれていったと考えられます。住吉大神が神功皇后伝承と結びつくのはおそらく次の段階だと思われます。大和王権による大阪湾岸・瀬戸内海の港湾の掌握は、5世紀以降すすんでいくと考えられますが、それは次節で検討します。

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式内社・伊佐具神社

 旧摂津国河辺郡内には七座の式内社がありました。そのひとつが伊佐具〔いさぐ〕神社です。
 伊佐具神社の名は、先にあげた神功皇后伝承に縁がある大阪湾沿いの神社と関連して登場します。それは、朝鮮半島の新羅からの使いが日本にやって来る際に、敏売〔みぬめ〕崎と難波館〔なにわのむろつみ〕で神酒を給う外交儀礼を行なうときのことです。難波館は外国使節を饗応〔きょうおう〕・宿泊させる外交施設です。敏売崎は敏馬神社がある崎です。その際、敏売崎で給う神酒は、生田社で醸〔かも〕したもので、その原料となる稲は大和の一社と摂津の広田、生田、長田各神社から供給された稲を使うこととなっていました。一方、難波館で給う神酒は、大和四社、河内・和泉から各一社、そして摂津の住道〔すむち〕社と伊佐具社から貢納した稲を使用することになっていました。広田社以下は神功皇后伝承と関連し、また、敏馬神社も同様です。このように、外国使節を迎える儀礼が、大阪湾岸の神社を祭祀に組み込む形で行なわれている点に、大阪湾岸の諸港湾のための共同祭祀が、大和王権の外交と密接に関わって行なわれたことがうかがえます。
 以上から、伊佐具神社の存在は、神前松原で行なわれた共同の海洋祭祀に関連している可能性があります。伊佐具神社は現在上坂部〔かみさかべ〕に所在しますが、この地が式内社当時の伊佐具神社の場所であったかどうかはわかりません。近世から近代にかけて、神社は幾多の統廃合や祭神の変更が行なわれています。江戸時代の中頃、元文元年(1736)に建てられたとされる標石が存在しますが、これはこの時代に古代からの由緒を確かめようという動きがあったことを示しています。

式内社
 10世紀に編さんされた「延喜式」という法典の神名帳に記載された神社を言う。古代の神社目録として利用することができる。
新羅
 4世紀以降、朝鮮半島の東南部に位置し発展してきた国家。朝鮮三国の時代を経て、668年に朝鮮半島を最初に統一し、935年まで存続した。日本からは遣新羅使が派遣され、新羅からは新羅使が来朝した。新羅使を迎えるための大阪湾での外交儀礼は、7世紀の前半頃に中国の儀式を取り入れて始まったと考えられる。

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現在の伊佐具神社と伊佐具神社社号標石

 伊佐具神社は現在、上坂部3丁目に所在します。境内には古い五輪塔があり、室町時代の武将・赤松円心の墓との伝説があります。また、境内の稲荷神社は元は真言宗福円山浄徳寺と呼ばれ、寺院で神社への信仰が行なわれていました。これを神仏習合と言います。摂津国のもっとも古い地誌で元禄年間に著された『摂陽群談』には伊佐具神社の名前が見えず、元文元年(1736)になって標石が建てられたところを見ると、江戸時代には伊佐具神社は既に失われており、上坂部にあった神仏習合の寺社の由来を古代の伊佐具神社と考えるようになったものと思われます。
 これを行なったのが江戸時代中期の並河誠所〔なみかわせいしょ〕という学者でした。彼は大坂町奉行所の助力も得て各地の神社仏閣の由来を考証し、摂津国内20社の昔の社号を復活させて標石を建てさせました。伊佐具神社の標石は方24p・高さ91pで、正面に社号が刻まれています。台石の裏面中央を見るとかすかに「菅廣房〔すがのひろふさ〕□」と書いてあります。これは山口屋伊兵衛という商人のことで、標石を建てる費用を寄付した人です。

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並河誠所の調査と村の対応

 並河誠所(五市郎)は、享保15年(1730)5月に山田村(現伊丹市)や今津村(現西宮市)に近辺の村役人を呼び、各村の寺社や石高、小字地名などについて調査しています。
 次の文書は、常吉〔つねよし〕村が並河へ回答した項目のうち、並河が書き留めたのは氏神の祭神名と寺の宗派と名前の2か定(条)のみであったこと、水帳(検地帳)記載の小字名も見せたが、とくに由緒のない地名のためか書き留めてはいなかったことを、大庄屋の岡本宇兵衛へ報告した文書です。
(西宮市蔵、岡本俊二氏文書)

下坂部遺跡出土の重圏素文鏡と滑石製勾玉

 下坂部〔しもさかべ〕遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての複合遺跡で、現在の伊佐具神社よりやや南東にあります。鏡は、直径3.8pの青銅製で、大阪湾形と言われる重圏文〔じゅうけんもん〕を持っており、祭祀に使われたと考えられます。祭祀用の勾玉(長さ4.4p)も出土しており、1辺40pの正方形の井戸枠とともに、この付近で泉や井戸にまつわる祭祀が行なわれていたことをうかがわせます。

重圏素文鏡〔じゅうけんそもんきょう〕
下坂部遺跡出土


滑石〔かっせき〕製勾玉〔まがたま〕
下坂部遺跡出土

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地域の神社の昔の様子を調べるには
 おもな神社については、『角川日本地名大辞典』28兵庫県(角川書店、昭和63年)、『日本歴史地名体系』29兵庫県の地名(平凡社、平成11年)などにあらましが載っています。
 古代の神社を原史料から調べようという方は、「延喜式」神名帳を一度ご覧ください。『訳注日本史料 延喜式』上(集英社、平成12年)という注釈書が出ていますので、自分で調べることができます。なお、兵庫県内の神社については、『兵庫県神社誌』全4冊(兵庫県神職会、昭和2〜15年 臨川書店、昭和59年復刻)を見ると、どのような関連史料があるかわかります。

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