古代編第1節/古代社会の黎明1コラム/田能遺跡の発掘調査(福井英治)

弥生時代の集落跡

 田能〔たの〕遺跡は昭和40年(1965)9月、尼崎市田能中ノ坪で行なわれていた工業用水道園田配水場の建設工事中に発見され、翌41年9月までの1年間、工事に並行して発掘調査が行なわれました。44年には国の史跡に指定。42年から3年計画で史跡整備がすすめられ、45年7月、田能資料館として一般に公開されるようになりました。
 遺跡の発見から発掘調査をすすめ、保存をはかって後世に伝えていくに至るまでには、数々の困難な壁が立ちはだかっていました。それは、遺跡の発見が工事開始後であったこと、広い範囲にわたる大規模な遺跡であったこと、工事が国庫補助事業で竣工期限が翌41年3月末日と限られていたこと、尼崎市単独ではなく伊丹市・西宮市との3市共同事業であったこと、当時の緊急課題であった地盤沈下対策事業としての工業用水配水場建設であったことなどのほか、当時尼崎市教育委員会に埋蔵文化財担当の専門職員がいなかったことも含めて、いくつもの悪条件が重なっていました。工事を中断して発掘調査し、詳細な記録を残すこと、さらには、発掘された遺跡を破壊から守り、後世に伝えていくうえで非常に困難な環境下にありました。

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発見者は現場監督

 遺跡発見のきっかけを、当時の新聞記事から紹介します。「尼崎市水道局西部建設事務所の現場監督、北川輝忠さんが、九月十二日、沈でん池のやや北寄りの地区で、ブルドーザーの掘り起こした土の中から古い時代の土器のカケラを発見。さらに同月十五日、同池の中央部でこんどは完全な形をしたツボをみつけ出した。幼少のころ、親類の人から古い土器類の見方の手ほどきを受け(中略)ていたので、ツボを手にした北川さんは『これは二千年前、弥生時代のものだ』と直感した。と同時に『これを公表したら大変なことになる。(中略)工事を進めるうえでさしさわりが生じるのではないか』−現場監督の立場で北川さんは迷った」(昭和41年6月14日付毎日新聞)
 北川さんは遺物の発見を上司に報告し、そのことが市史編集事務局・市教育委員会にも伝えられました。
 場所は、尼崎市の北東端、猪名川に接した水田地帯の1万5千u以上の広大な地区で行なわれていた配水場の、掘削〔くっさく〕造成工事中の現場でした。10月中旬には遺跡の発見届けが兵庫県教育委員会に提出されています。出土した土器から弥生時代の遺跡であること、遺物・遺構が大量に検出されたことから大規模な遺跡であることがわかってきました。現場を視察した結果、発掘現場は広く、ブルドーザーが掘り起こすあちこちで土器が出土し、とても少人数で対応できるような状態ではなかったと、調査を担当した村川行弘氏がのちに述懐しています。

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発掘報道と調査延長

 工事の進行につれて出土する土器などの莫大〔ばくだい〕な遺物の量やその広がりから見て、これまで尼崎市内では経験したことのない大規模な遺跡であることがわかってきました。それまで市内で行なった発掘調査は、教職のかたわら考古学を研究する者が、夏季・冬季の休暇中に合同して行なう程度の規模でした。今回は、前述した理由などから工事の一時中止もかなわず、ブルドーザーが随所で土器を壊しながら、工事は進行しました。
 時期が学期途中であったため調査に専従できる調査員の確保ができないこと、広大な広がりのなかで工事に先行して調査する人員も確保できないなど、人手不足が焦眉〔しょうび〕の問題となりました。10月のはじめには緊急の調査団が編成され、比較的土器類がまとまって検出された地点を中心に発掘を開始しました。生徒・学生・市民の考古学愛好グループの応援も次第に増え,のちに関東地方からも応援がありましたが、放課後等の参加のため充分な時間が確保できず、工事に比べ発掘側が手薄なことには変わりませんでした(写真1)。11月になって調査費用が支出され、市教育委員会から水道局に最低限90日の記録保存のための調査実施を要望しましたが、調査は年末までとの回答でした。
 この間、新聞では、11月16日付で「田能で大集落跡」と報じられたのをはじめとして、北部の第1B調査区と呼ばれた地区で数百個体の土器が密集して発掘された状況が、全国に報じられました(写真2)。
 工事側の機械力に圧倒されながらも,破壊の進行に先行して調査地点は次第に南に移動し、11月に入ってポンプ室予定地、後に第4調査区と呼ばれ、現在保存されて資料館の敷地の大半を占める場所の掘削が開始されました。ここからは調査前には思いもよらなかった遺構や遺物が発見されました。22日には、細長い木片が見つかり、その下にほぼ全身の骨格を残す人骨が見つかりました。後に精査して、コウヤマキの板を蓋〔ふた〕とした弥生時代の成人埋葬の土坑墓〔どこうぼ〕であることが確認されました(12月中旬この木蓋土坑墓は土ごと取り上げられました。その後、保存処理され、現在も田能資料館で公開されています)。その発見をきっかけに、成人埋葬の墓や小児埋葬の壷〔つぼ〕棺・甕〔かめ〕棺墓が相次いで発見されました。なかでも、コウヤマキの組合せ式箱式木棺墓の発見は、木蓋土坑墓とともに近畿地方では不明であった、古墳時代に継続する弥生時代の成人の埋葬形態をあきらかにした、貴重な発見でした。さらに12月下旬、遺跡の南西隅から数百個の碧玉製管玉〔へきぎょくせいくだたま〕の首飾りをもつ木棺墓と、左腕に白銅製の釧〔くしろ〕を着装した木棺墓が相接して発見され,「日本のツタンカーメン」と大きく報道されました。
 調査の進行につれて、墓棺を主とする遺構や方形周溝遺構・無数の柱穴・幅広い溝跡・円形住居跡などの遺構、弥生時代の全期間にわたる大量の土器や石斧・石鏃・石庖丁などの石器のほか、磨製石剣・土錘・碧玉製管玉・ヒスイの勾玉〔まがたま〕など貴重な発見が相次ぎました。田能遺跡の重要性は広く周知され、休日には数百人を超す見学者が調査中の現場を取り囲むような状況を呈〔てい〕し、公共事業の促進か、文化財保護か、の議論が活発になりました。調査期間も2月末まで延長が決まり、のちには遺跡南側を8月末までに調査して保存の判断をする方針が決定されました。

写真1 調査に参加する中学生
写真提供:尼崎市教育委員会
 園田中学校・立花中学校の生徒、尼崎東高等学校の高校生や武庫川女子大学の学生、「芦の芽」グループなどの考古愛好グループのメンバーも応援しました。

写真2 第1B調査区の土器の密集状況
写真提供:尼崎市教育委員会
 『アサヒグラフ』によって「土器のお花畑」と題して全国に報じられました。

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市民と遺跡保存

 専門家を顧問に、専従調査員も委嘱して調査体制の強化をはかり、2月中旬からは奈良国立文化財研究所(当時)技官の応援を得て、新たに第5調査区の発掘調査が開始されました。銅剣鋳型〔いがた〕・ガラス玉・碧玉の原石など新たな発見が相次ぎ、市と市議会では遺跡の保存と配水場の設計変更について盛んに議論が行なわれました。市内各所で出土品展や写真展が開催され多くの見学者でにぎわい、市民の間には遺跡の保存をめざして保存運動が急速に盛り上がりました。財界人を中心に「田能遺跡保存後援会」が組織され、募金運動・講演会や市民のつどいを開催して史跡指定と保存に向けて援護活動を開始。一般市民・学生を中心に結成された「田能遺跡を守る会」は、阪神尼崎駅頭での署名運動や「田能の夕べ」と題する発掘担当者の講演会などを開催しました。
 5月下旬に開催された田能遺跡発掘調査委員会顧問会議は、長時間にわたる協議の末、「遺跡保存を求める市民の要望を無視するわけにはいかない」と「第4・第5調査区を中心に埋め戻して保存」の結論を出し、これを受けて6月初旬の尼崎市議会議員総会を経て遺跡の保存が決定されました。その後、設計変更にともなって破壊される部分を対象に調査が行なわれ、昭和41年9月30日をもって一年間に及ぶ発掘調査を終了しました。

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