古代編第2節/律令国家の形成と展開1/王族の集住と直轄領(高橋明裕)
摂津の凡河内国造
猪名川・武庫川河口域が大和王権の港湾として機能し、その河口域の後背地であり摂津から中国地方にかけての陸上交通の要ともなった尼崎地域には、港湾を支えるための技術者集団や軍事的集団、そして渡来系集団が政策的に配置されたらしいことは本編第一節で見たとおりです。それは5世紀頃からの動向と見ることができます。
王権の港湾および海上祭祀に関する伝承に、凡河内直香賜〔おおしこうちのあたいかたぶ〕という人物が筑紫の宗像〔むなかた〕社に派遣されましたが、祭祀中の失態によって処罰されることになり、香賜は逃亡先の摂津の三嶋で捕らえられて斬られたとするものがあります(『日本書紀』雄略天皇巻)。宗像神は住吉大神と同じく大和王権の航海神です。
凡河内直という豪族の名前は、河内を統括する職名にちなむものです。河内地域から住吉津・難波〔なにわ〕津などの港湾地域が分離して摂津になるわけですが、凡河内直氏の職掌には港湾の管理、さらには大陸との外交が含まれたと見られ、宗像社に派遣されたことも海洋祭祀と関係があるからです。凡河内氏は5世紀後半の雄略期頃より勢力を増したものと考えられます。また凡河内直香賜が三嶋に潜伏したことから、摂津地域にも勢力を張っていたことがわかります。
凡河内直氏は現在の神戸市湊川付近に「凡河内寺山」を領し(「法隆寺伽藍縁起資材帳」)、摂津国菟原〔うはら〕郡に河内国魂〔かわちくにたま〕社があること(「延喜式神名帳」)も西摂〔せいせつ〕地域(摂津国西部)への勢力の扶植〔ふしょく〕をうかがわせます。凡河内直氏は猪名湊〔いなのみなと〕・武庫水門〔むこのみなと〕を管理し、この尼崎地域とも関わりを持ったと考えられます。凡河内直氏は凡河内国造〔おおしこうちのくにのみやつこ〕とも称しました。国造とは地域の有力豪族である場合が多いのですが、凡河内国造の場合は港湾管理や外交など、王権の官僚的性格が強いのが特徴です。摂津地域が元来の本拠地であったかどうかはわかりません。この一族の本貫地(本籍地)が河内国志紀郡にあるという記録もあり(『日本三代実録』元慶7年6月条)、港湾管理などの職掌上この地に勢力を扶植したとも考えられます。
王族勢力と尼崎地域
凡河内直氏からは継体天皇の子である宣化天皇の妃となった大河内稚子媛〔おおしこうちのわくごひめ〕が出ました。6世紀前半のことです。その間に生まれた火焔〔ほのお〕皇子を祖とするのが椎田君〔しいだのきみ〕一族です(『日本書紀』宣化天皇巻)。『日本書紀』では宣化天皇の后、橘仲皇女〔たちばなのなかつめみこ〕のもとに生まれた上殖葉〔かみつえは〕皇子を祖とするものとして丹比公〔たじひのきみ〕・偉那公〔いなのきみ〕一族を挙げるのですが(『日本書紀』宣化天皇巻)、『古事記』では火焔皇子・上殖葉皇子両者を大河内稚子媛のもとに生まれた皇子としており、やはり丹比公・偉那公一族は、上殖葉皇子の子孫としてあります。『古事記』と『日本書紀』の系譜にくい違いがあるのですが、偉那公とは為奈〔いな〕・猪名とも表記する猪名地域ゆかりの氏族名です。椎田君も尼崎市内の地名・椎堂〔しどう〕と関連し、一族には川原公〔かわらのきみ〕(市内の瓦宮と関連)がいます(図1)。
宣化天皇後裔の椎田君・偉那公・川原君一族が尼崎地域に集住したと見られることは、この地域に拠点を持った凡河内直氏の女性を母とし、母の一族によって養育され、この地を基盤とした王族であったことを示しています。
王族とは、大王〔おおきみ〕の血統、上殖葉の高貴さを受け継ぐ一族として大王の後継候補になり得るとともに、母方の一族の庇護〔ひご〕を受けるなど、宮家を支える家臣の豪族たちにとって求心力となる存在です。豪族たちは宮家に奉仕するとともに、皇子が即位したあかつきには政権に参与することを望むことでしょう。このような王族のしくみが形成されてくるのは、世襲王権が確立した欽明天皇の子女の世代からと考えられています。
継体天皇後裔氏族
欽明・安閑・宣化天皇の父、継体天皇は、『古事記』『日本書紀』によれば応神天皇の五世孫として北陸地方から迎えられたという特異な即位事情が伝えられています。五世孫という記述については、前代の王統との断裂ないし前王統の女性との入り婿説が出されています。継体天皇の末年には九州北部の豪族、筑紫君磐井〔つくしのきみいわい〕との戦争(527〜528年)があり、近畿周辺でも混乱があった痕跡があります。尾張の大豪族の女性(尾張目子媛)を母とした宣化天皇の即位の事情もはっきりしない部分があり、治世も短期間でした。安閑・宣化天皇と欽明天皇の朝廷が対立したという仮説も出されています。
いずれにしても世襲王権が確立したと言えるのは欽明天皇の代からであり、その男系の王統が律令国家を建設した天武天皇につながります。天武天皇から見てみずからの王統は継体天皇の男系子孫であり、彼によって確立された天皇の地位はこの王統によって受け継がれるべきだと考えたわけです。天武天皇13年(684)に八色〔やくさ〕の姓〔かばね〕が制定されています。これは豪族がそれ以前に氏族ごとに名乗っていた臣〔おみ〕、連〔むらじ〕などの姓をいっせいに改姓させ、新しい氏族ごとの身分秩序に再編させるものでした。かつての臣、連などを称していた有力豪族よりも天皇の親族である皇族を第一位の序列とし、公の姓を名乗っていた王族のなかから抜擢〔ばってき〕した者に真人〔まひと〕の姓を与えたのです。このとき真人姓を与えられた13氏のなかに、猪名真人(威奈真人)、丹比真人がいます。かつての丹比公・偉那公です。継体天皇の男系子孫が、天武天皇の王統に準じた身分であることが公認されたのです。尼崎地域は6世紀に入る頃には、継体天皇の王権ゆかりの王族集住地として后妃一族が勢力を扶植し、あるいは王家の所領となっていったのです。摂津東部の淀川流域、現在の高槻市に今城塚〔いましろづか〕古墳(継体天皇の大王陵であることが有力視されている)が存在するのも、故なしとしないのです。
埴輪の写真は、いずれも『発掘された埴輪群と今城塚古墳』展示図録(高槻市教育委員会、平成16年)より転載しました。
戻る王権の直轄領
古代の尼崎地域に、王権の港湾とその後背地としてさまざまな氏族や集団が政策的に配置され、王族も集住するようになったことは、この地域が王権にとって直轄領的な意味を有する土地であったことを意味します。8世紀の猪名荘〔いなのしょう〕の成立(本節3参照)に見るように、この地域の一部は天皇によって東大寺に勅施入〔ちょくせにゅう〕されるという経過をたどります。律令国家の時代、公地公民制により全国土は天皇によって所有される国家的土地所有が実現したと見る見解に立った場合でも、天皇による社寺への寄付(勅施入)という手続きによって処分される土地の特質は、王権の直轄領に起源すると見ることができるでしょう。
律令国家の段階以前の王権の直轄領としては、県〔あがた〕と屯倉〔みやけ〕が挙げられます。県は国造制以前の段階において、大王の内廷に食料などを貢納する古いタイプの直轄領で、宗教的・祭祀的意味合いが強いとされるものです。県には県主〔あがたぬし〕という国造よりも古いタイプの王権に服属した豪族が存在するとされますが、猪名の地にあったと考えられる猪名県には、猪名県主の存在を史料上で確認することができません。また猪名県は、渡来集団の猪名部や王族の猪名公氏ともまったく関係がありません。本編第一節4「海陸交通の掌握と部民〔べみん〕の設置」で見たように、猪名県の実態は王権の狩猟地という性格を持ったものと考えられます。一方、屯倉は王権が発展する過程で地方豪族の土地を割き取ったり、開発することによって直轄下に置いた土地や政治的拠点のことです。猪名屯倉の名称も史料的には確認できないのですが、この地域は実質的に王権主導の開発によって屯倉に相当する直轄領となったものと考えられます。
猪名野と呼ばれた伊丹丘陵から猪名川下流域は、後世も狩猟地や放牧地であったことがわかります。平安時代は朝廷のもとに猪名野牧〔いなのまき〕が置かれ、牛馬を放牧していました(「延喜式」左右馬寮)。猪名川の氾濫原〔はんらんげん〕が広がっていた平原は、有力貴族に限って狩猟が認められる「遊猟之地」でした。貞観元年(859)に左大臣源信に、仁和元年(885)には太政大臣藤原基経に猪名野の狩猟が許可されています。本来は天皇にのみ獲物(狩贄)が貢納される禁猟地(禁野)だったとみなすことができます。
禁漁地は陸上だけではありませんでした。持統天皇3年(689)、河内国大鳥郡の高脚〔たかし〕海と並んで摂津国武庫海千歩〔ふ〕(約18km)内が禁漁区とされました。律令国家においては山野河海からの恵みは公共のもので、有力者が囲い込んで排他的に分割所有することが禁止されていました。そのもとで禁漁地を設定し狩猟・漁猟を独占できるのは、天皇だけの特権だったのです。
律令国家形成以前から、王権は国家的管理や開発を特定の地域に対して行ない、王権の直轄領としていました。王権の意思により技術集団や官僚的な豪族を配置し、王族の集住地ともなっていったこのような所領は、王権にのみ貢納される山海の産物の供給地となりました。律令国家の段階になると、全国土が天皇に帰属する公地とされ、誰であろうと排他的な占有が禁止されます。しかし、王権の直轄領の流れをくむ所領は、天皇とその特別な恩寵を得た臣下のみが用益できる牧や禁猟・禁漁地として存続し、あるいは天皇による社寺への寄付(勅施入)などの処分に付されたのでした。
威奈大村の事績
威奈真人大村〔いなまひとおおむら〕は宣化天皇の五世孫であり、父は斉明天皇に仕えた威奈公鏡(『日本書紀』では猪名公高見とある)です。天武天皇の時代に真人の姓〔かばね〕を与えられ、位階は持統天皇の時代に七位相当から始まって、文武天皇の時代に少納言に抜擢され六位相当となり、ついで五位相当まで昇りました。大宝令が施行されると従五位下を授けられ、侍従となり宮中に密着して活躍しました。その後従五位上にすすみ、慶雲2年(705)には太政官の書記官を兼ねました。同年には越後の国司となり、仁政により蝦夷を帰順させることに功績があったため慶雲4年には正五位下にすすみましたが、同年越後の地で46歳で病死しました。墓誌は、礼を重んじ管弦にも優れて昇進し善政を施した大村が、遠方の地で没したことを悼んでいます。