古代編第2節/律令国家の形成と展開1コラム/猪名寺廃寺の軒瓦−川原寺式軒瓦の寺々と造営の姿−(八賀晋)

天武政権と新式蓮華文瓦

 猪名寺廃寺〔はいじ〕は伊丹廃寺とともに、法隆寺式の伽藍配置を持つ、摂津地域の古代寺院の典型です。猪名の地は猪名県〔あがた〕や猪名荘〔いなのしょう〕の存在によって示されるように、古代には猪名川河口近くの西岸に早い時期から拓〔ひら〕けた土地であり、統治した氏は古く皇別氏族のひとつである為奈〔いな〕氏を祖としました。
 猪名寺は、そののち孝徳朝や天武朝で活躍する猪名(偉那)氏が本拠地に建立した氏寺と推定されます。
 猪名寺廃寺の軒瓦は、飛鳥・川原寺式軒瓦である複弁八弁蓮華〔れんげ〕文軒丸瓦と四重弧文軒平瓦を組み合わせています(図1参照)。軒丸瓦は3型式にわけられ、四重弧文軒平瓦は長さ15cmに及ぶ深い段顎〔だんがく〕を持つ特徴的な軒瓦です(図2)。
 軒瓦の範となった川原寺の創建は天智天皇代(662〜672)と考えられ、それまで寺院の軒を飾った百済〔くだら〕様式の単弁蓮華文にかわり、優雅な新唐様式の複弁蓮華文が各地の氏寺の甍〔いらか〕を彩りました。
 摂津には十数か寺の古代寺院が建立されましたが、川原寺式の軒瓦を持つ寺々は、猪名寺廃寺、伊丹廃寺(現伊丹市)、芥川廃寺・梶原廃寺(現高槻市)などで、梶原廃寺のように古様の軒瓦に加えて新たに複弁蓮華文で葺く寺院もありました。天武朝を中心とした7世紀後半、各地域では豪族であることの象徴的な証しとして、積極的に中央・地方豪族層に造寺が受け入れられ築造が加速されました。


図1 猪名寺廃寺跡出土の川原寺式軒瓦の組合せ
尼崎市文化財調査報告第16集『尼崎市猪名寺廃寺跡』(尼崎市教育委員会、昭和59年)より


図2 深い段顎を持つ創建期の軒平瓦
段顎とは、軒平瓦先端部の分厚い部分。出典は、図1と同じ

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豪族の中央進出と造寺

 豪族の地位の象徴として造寺を促進させた背景は、地域で確立した強大な生産力でしたが、さらなる目的は官僚機構への参入でした。政治参与への手段はあらゆる機会を捉えてこころみられたでしょうし、時には戦乱をその好機とすることもありました。
 東海地方、とりわけ美濃地域には川原寺式軒瓦を持つ古代寺院が極めて多く、その建立には特異な様相が見えます(図4)。
 美濃地域の古代寺院の建立は7世紀中頃に始まり、3か寺ほどが建てられました。尾張・伊勢の場合も同様です。7世紀後半、川原寺式軒瓦やその亜式の軒瓦を持つ寺が一挙に17か寺にも達します。この傾向は尾張西部や伊勢北部の美濃に隣接する地域でも顕著です。飛鳥時代にさかのぼる寺々にも、新たに川原寺式軒瓦を茸〔ふ〕いた伽藍が改修・新築されます。
 そうした地方豪族による造寺の契機のひとつに、美濃の味蜂間〔あはちま〕郡(のちの安八郡)湯沐邑〔ゆのむら〕の地を核に展開した壬申〔じんしん〕の乱(672年)があり、乱に際して大海人皇子〔おおあまのおうじ〕(天武天皇)側に参じ、戦功を高めた豪族たちの姿とその功績の形を見ることができます。
 壬申の乱は大海人皇子方の勝利に終わり、新たに天武天皇による律令体制の秩序が確立されました。
 天武天皇の壬申の乱の勝利への思いは強く、戦いに貢献した功臣への酬いは、さまざまな功賞として表され、その論功は持統天皇へ、さらに奈良時代に至っても功臣の子々にまで及びました。
 乱でもっとも活躍が目立つ村国男依〔むらくにのおより〕は死に際し最高クラスの外小紫位〔げしょうしい〕を授けられ、下級貴族として中央に進出しました。戦功への功賞は郡司への登用、さらに農民層への叙位という異例の形でも表されます。正倉院に残る美濃国戸籍の断簡のなかには、一般農民ではあり得ない位階を有する人々が存在します。年齢的に見ても参戦の功績によるもので、美濃を中心に豪族層の自負と新たな地位の獲得の象徴が、時に造寺に拍車をかけたのです。

図3 壬申〔じんしん〕の乱 大海人皇子の進路 
 大海人皇子(のちの天武天皇)らは、吉野宮から伊賀国・伊勢国北部を抜けて美濃国の湯沐邑〔ゆのむら〕へ向かい、東国(現在の三重県東部・岐阜県・愛知県・長野県)の豪族たちを味方につけて、大友皇子(弘文天皇)の大津宮を攻撃しました。


図4 伊勢・美濃・尾張の川原寺式系軒瓦の寺院

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高度な技術力が背景に

 乱の中核の地であった湯沐邑は、美濃平野の西端で伊吹山系の東麓にあります。邑内には良質の露頭の赤鉄鉱の鉱脈が厚く分布しています。弥生時代以降、赤彩土器や埴輪〔はにわ〕の顔料として利用され、同時に鉄製品の原料として5世紀代には精錬されてきました。精錬を行なった地域は、のちに朝廷の直轄支配地として新たな支配体制に組み込まれていき、その統治者は皇太弟である大海人皇子にゆだねられたものと思われます。美濃の軍事的基盤が確立された地は、精錬・武器製作の技術が早くからすすんだ特殊な地でもありました。
 美濃や周辺の豪族による造寺に至る経緯には、特異な契機が介在しましたが、その背景にはそれまでに確立した地歩を基盤に、機会を的確に捉え中央官僚組織への進出を窺う地方豪族の姿を見ることができます。
 猪名寺廃寺を築造した氏たちは、どのような生産基盤を背景に造寺に至ったか、その歴史的経緯は定かでありませんが、造船や木工の技術者集団である猪名氏の氏姓が示すように、卓越した技術力の反映の結果として捉えることができるでしょう。

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