古代編第1節/古代社会の黎明1コラム/大型掘立柱建物(福井英治)
柱列と柱根
平成7年(1995)1月17日の阪神・淡路大震災は尼崎市内にも大きな爪痕〔つめあと〕を残し、住宅など建物に大きな被害を与えました。市内の指定文化財、なかでも建造物には倒壊寸前のものも出るなど、大きな被害を被りました。地中に埋没している埋蔵文化財に直接被害が及ぶことはありませんでしたが、被災住宅の建て替えや住宅の供給建設事業にともなう新たな埋蔵文化財の発掘調査の増加が心配され、それに付随して調査員の確保や調査費用の負担など、さまざまな問題が想定されました。これらについては、費用負担は国庫補助負担で行なわれることになり、調査員の確保については、全国の都道府県から兵庫県に派遣された発掘調査員の支援を受けられることになって、事前の想定は杞憂〔きゆう〕に終わりました。
このような状況のなかで、武庫庄〔むこのしょう〕遺跡の遺跡地内において復興事業に該当する共同住宅建設が計画されたため、事業に先立って平成8年5月〜8月、千葉県教育委員会から兵庫県教育委員会へ派遣された半澤幹雄および岐阜県教育委員会から派遣の三輪晃三両氏を調査担当者として調査が実施されました。
調査前の見通しとしては、無数と言っていいほどの小ピットのほか、円形の竪穴〔たてあな〕住居跡・方形周溝墓〔ほうけいしゅうこうぼ〕などの遺構の検出、遺物として、サヌカイト製の石鏃・石錐・不定形刃器などの打製石器とその製作過程に生じる大量のサヌカイト片・土器は表面が粘土〔ねんど〕に密着して、文様や調整痕〔こん〕などが剥〔は〕がれて残りの悪い状態のものが多いことなどを想定して臨みました。
洪積段丘〔こうせきだんきゅう〕上に位置していることから、木材が残存していることなども想定外のことでした。調査は対象地を東西2地区にわけて西側から開始しました。従来と同様に約30cmの表土・床土を剥がすと拳〔こぶし〕大の礫〔れき〕を包含する洪積層が現れ、掘立柱建物2棟・竪穴住居1棟・溝状遺構1条などの遺構が検出されました。その後、調査は東地区に移行し、同様に表土を剥がし、遺構の検出を試みました。調査区東側で、8.6mの間隔をおいて南北方向に連なる2列の大きな柱列〔ちゅうれつ〕(写真1、東側に3本、西側に5本)、柱列間から南に4.6m離れて大きな柱穴が検出されました(写真1〜7)。調査をすすめると、この柱列の柱は、幅広く筋状に掘り窪〔くぼ〕めた布掘り状の掘方(幅1.3m、深さ20cm)の中に、長方形の柱掘方を穿〔うが〕ち、柱を据〔す〕えていたことがわかってきました。しかもすべての柱穴内には柱の根元部分−柱根〔ちゅうこん〕−が残存していること、発掘現場での計測では、いずれも直径50cmを越す巨木であることもわかりました(写真5〜7)。これまでの市内遺跡の調査では経験のない太さの柱でした。そして、この柱列は北側の調査区外に延長して続くことがわかりました。柱列が、はたして建物を構成する柱なのか、それ以外の用途であるのか、当初から、建物の存在を想定したわけではありませんでした。
大型の高床建物
当時の考古学的な比較資料として、大阪府和泉市の池上・曽根遺跡で発見された弥生時代の建物として国内でも最大規模の大型掘立柱建物がありましたので、その調査例から、柱の規模・柱と柱の間隔・柱列(側柱)間の間隔、棟持柱〔むなもちばしら〕の規模・位置等を比較してみました。数字のうえだけの比較ですが、いずれの数値も池上・曽根遺跡の例をはるかに上回る規模の数値でした。その数値がこれを建物とするには規模が大きすぎると考えられたことから、当初、建物の柱穴ではなく、象徴的な場所・建物への導入の役割をはたす林立する標柱,記念碑的な木柱に類するものと考え、独立する柱列と見ていました。のちに、建築史の研究者から、図上の検討から「上部構造については現段階ではプランを持たないが、大型の高床建物であろう」との教示を受けました。
専門家の指摘をもとに再検討の結果、梁間〔はりま〕1間〔けん〕、桁行〔けたゆき〕4間以上の独立棟持柱をもつ南北棟の高床建物であり、建物の南側が検出されたと考えるに至りました。全容があきらかでないことから単純には比較できせんが、池上・曽根遺跡の建物を上回る、国内最大規模の巨大高床建物と考えられるようになりました。
それではこの巨大な建物はどんな役割を持っていたのでしょうか。建物は武庫庄遺跡のなかでは、西寄り中央付近の小高い場所に位置しています。東西に広がる集落の中では周囲から仰ぎ見られる場所に建てられていたことになります。この建物にはほかにどのような施設が付随していたのか、また全体の規模・構造は、など不明の点がありますが、梁間から離れて独立した棟持柱をもつ建物は、掘立柱建物のなかでも特殊な構造を備えた建物で、祭式・儀礼に関わる建物であった可能性が高いとされており、未だ確たる証拠はありませんが、神殿・祭祀に関わる施設、首長の居館とする見解が表明されています。太さ80cm以上の巨木を使った独立棟持柱は、2m×1.7mの長方形の大きな掘方のなかに残されていました。この柱穴で特徴的なことは、垂直に掘り込んだ柱穴の底に向かって南側から傾斜する、細長い溝が掘り込まれていたことです(写真8)。この傾斜路は柱を建てる際に、柱穴に向かって柱を滑らせるための装置だと考えられます。柱穴に向かう傾斜路はこの建物だけでなく、他の建物の柱穴にも認められており、武庫庄遺跡で巨大建造物を建築する際の柱の建立にあたって、巨木(柱にはすべてヒノキが使われていました)を建てる際の共通した装置であったことが確認されました。
武庫庄遺跡の大型掘立柱建物は、建物の北側が未調査のため全容が不明ですが、あきらかになった部分だけでも、国内では他に類のない弥生時代最大の建造物であると言えます。この武庫庄遺跡に巨木を運搬してきた労力もさることながら、原木を加工し、柱として据えるために礫混じりの硬い地盤に穴を掘り,柱を建てた労力には目を見張るものがあります。それをさせた権力の基盤が、武庫庄遺跡に存在したことがわかります。